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名古屋高等裁判所金沢支部 昭和45年(ラ)21号 決定

抗告人 三井金属鉱業株式会社

被抗告人 吉田うた 外四六〇名

主文

一、(一)原決定中、被抗告人針田行起(二二六)、同武部美喜(二三七)、同花岡信政(二六〇)、同竹内重信(二九九)、同若林良昭(三九九)に関する部分を取消す。

(二)被抗告人らの本件訴訟救助申立を棄却する。

二、抗告人その余の被抗告人らに対する抗告はいずれもこれを棄却する。

三、抗告費用は抗告人の負担とする。

事実

第一、当事者双方の申立

抗告代理人は、「原決定を取消す。被抗告人らの訴訟救助の申立はいずれも却下する。」との裁判を求め、被抗告代理人は、「抗告人の本件抗告を却下する。」との裁判を求めた。

第二、当事者双方の主張

一、被抗告代理人の主張は、要するに被抗告人らが抗告人を被告として富山地方裁判所へ損害賠償請求の訴を提起し、同庁昭和四三年(ワ)第二〇一号、同昭和四四年(ワ)第四六号、同昭和四四年(ワ)第二六一号、同昭和四五年(ワ)第三四号各事件として係属したが、右各事件について被抗告人らは訴訟費用を支払う資力なく、また勝訴の見込みなきに非ざるときに当るから、訴訟救助を求める、というにある。そして当審において、更に別紙被抗告人ら主張の理由書(一)ないし(六)記載のとおり主張した。

二、抗告代理人は、当審において、別紙抗告人主張の理由書(一)及び(二)記載のとおり主張した。

第三、当事者双方の疏明〈省略〉

理由

第一、本件抗告の適否

一、被抗告人らは、本件訴訟救助決定に関し抗告人は実質的利害関係なく、従つて抗告人には抗告をなす何らの法律上の利益はないから、本件抗告は許されないものである旨主張する。

よつてこの点につき判断するに、民訴法における訴訟救助制度が無資力者の訴訟制度利用に重要な役割を持つていることは、他にみるべき法律扶助制度のない現在においていうまでもないことである。しかしながら右訴訟救助制度は、右の如く民訴法に根拠を有し、同法所定の要件のもとに、当該事件の受訴裁判所(係属前は管轄裁判所)がこれを決定するものであり、同決定に対して不服申立をなし得るか否かの点も同法の規定に拠るべきところ、同法一二四条は、本節に関する裁判に対しては即時抗告をなすこと得る旨を明文をもつて定めている。

そして訴訟救助を、本質的には国家と貧困者間の関係とみるとしても、濫訴にわたる場合にまで救助を与える理由なく、同法一一八条が、訴訟救助の要件として「申立人の貧困」のほか、その訴訟についての「勝訴の見込なきに非ざる」ことを掲げているのは右濫訴の防止にあるとみるのが相当であり、従つて勝訴の見込みがない場合に、救助申立を排斥しても国家として申立人の裁判を受ける権利を害することにはならないのである。そしてこの濫訴防止の要請は主として経費負担の点から、国家と申立人間において問題となるばかりでなく、右濫訴によつて被害を受けるのはその相手方である点を考えれば、同訴訟における右申立人と相手方間にも生ずるのであつて、相手方としては勝訴の見込みのない申立人の訴訟を自らの立場において排斥することが許されるものというべく、右訴訟手続の公正を確保する趣旨で相手方にも、一般的に、右訴訟救助手続において右申立人の勝訴の見込みの有無を争う法律上の利益があるものといわねばならない。そのほか訴訟救助決定は、訴訟費用の担保の免除について効力があり、従つて相手方が訴訟費用の担保の申立(同法一〇七条)をなし得る場合には、救助決定の結果、相手方は右担保を受ける権利を失うことになり、従つてこの点においても直接的な利害があり、またそのような場合でなくても、救助決定は、救助を受けた者についてのみ効力があり、その相手方には何等効力を及ぼさないため、将来相手方が勝訴しても、支出した訴訟費用の弁償を受けられない危険があり、かかる危険もまた法律上の利害とみなければならない。また原告において救助を申立てたが、その申立が排斥されたとき、場合によつては、訴状の印紙不貼用を理由に訴状が却下され、その訴訟が右段階において終了することが考えられ、濫訴ないしは無価値な訴訟の早期解決が得られる場合もあつて、相手方としては訴訟救助手続において、救助の要件の存否を争う実際上の利益なしとしないのである。これら具体的な場合における相手方の利害をも併せ考えると、

訴訟救助決定について相手方保護の特別の規定のない我が法制のもとでは、一般に訴訟救助決定の相手方は、右決定によつて直接的、実質的に不利益を受けないとして解釈上その抗告権を否定することには疑問があり、現行民訴法の下においては、前記規定を、救助申立を却下された場合の規定と限定的に解釈せず、同申立が認容された場合にも相手方は即時抗告をなし得る旨の規定と解するを相当とする。(大審院昭和一一年一二月一五日決定、民集一五巻二二〇七頁参照)。

二、つぎに被抗告人らは、抗告人の本件抗告は、被抗告人らを経済的に圧迫し、訴訟を長引かせた上、本案事件について被抗告人らを敗訴せしめようとする反社会的、非人道的な行為である、と主張するが、本件がいわゆる「イタイイタイ病」に基因して提起されたものであり、公害訴訟に関する被抗告人ら主張の社会的背景をも考慮して判断しても、抗告人の本件抗告が専ら被抗告人らに害を与える目的でなされた反社会的、非人道的な申立とみることはできず、抗告人提出の本件抗告の理由その他記録に表れた手続上、実体上の諸事情に照らせば、抗告人の本件抗告は法律上許された適法な申立とみられ、その他本件抗告申立が濫用にわたるものであることを疎明するに足る資料はない。

第二、勝訴の見込

一、本件に関する本案事件である富山地方裁判所昭和四三年(ワ)第二〇一号、同昭和四四年(ワ)第四六号、同昭和四四年(ワ)第二六一号、同昭和四五年(ワ)第三四号各事件記録によると、被抗告人らは抗告人を被告として、鉱業権者である抗告人がカドミウムなどの重金属類を含む廃水を放流し、またこれらが含まれる鉱さいをたい積したことにより受けた被抗告人ら又はその被相続人の身体上の損害を理由に、鉱業法一〇九条に基き損害賠償を請求していることが明らかである。そして右法条によると、右鉱業権者の賠償義務は無過失責任とされており、また原審四一〇号疏甲二号証同五及び六号証、八ないし二五号証、二七ないし三三号証、三五号証、三七ないし四六号証、四八ないし五八号証、六〇ないし六二号証、六四及び六五号証、六七及び六八号証、七〇及び七一号証、七三ないし七七号証、七九ないし八三号証、八五号証、八七号、八八ないし一二八号証(いずれも枝番全部)、一三〇ないし一四二号証(いずれも枝番全部)、一四三ないし一五二号証、一八八号証、三二〇号証、原審八六号疏甲一ないし九号証、一〇ないし一四号証(いずれも枝番全部)、二四ないし二六号証、原審五二六号疏甲一ないし四号証、九号証、原審六二号疏甲一ないし一三号証(いずれも枝番全部)、一五ないし一八号証、当審二一号疏甲三二一号証、三二八ないし三四一号証によると、被抗告人ら及び一部の被抗告人らについてはその被相続人が「イタイイタイ病」またはこれに類する身体障害を受けた事実が疏明される。

従つて、右訴訟における主要な争点は、専ら抗告人が前記の如き廃水を放流したり、鉱さいをたい積したか否か、右放流又はたい積と被抗告人らの身体障害との間に因果関係があるか否かに集約されていることが明らかである。そして右争点殊に因果関係の点は種々の問題が残りいまだ科学的に完全に解明されたといえないことは、当審二一号疏乙一ないし一一号証、当審二五号疏乙一一二ないし一二三号証によつて窺い知れるところである。しかしながら右は科学上の問題であり、その事柄の性質上、証明不可能が確定した訳でもなく、訴訟の進行に従つて解明されて行く余地も残されて居り、当審二一号疏甲三二一号証、三二五ないし三二七号証によると、医学又は理学上の科学的な専門知識を有する大学教授、医師等が他の同種事件において右因果関係を肯定する証言をしていることが疏明され、従つてこれら事情を総合すると、抗告人提出の前記疏乙号証によつて疑問は残るものの被抗告人らの本訴要求は勝訴の見込みがないと断定することはできず、もとより濫訴或いは軽忽な訴とみることはとうていできない。

被抗告人らの本訴請求について、勝訴の見込なきに非ざることの疏明はあつたものといわねばならない。

第三、被抗告人らの資力

一、訴訟救助は、「訴訟費用ヲ支払フ資力ナキ者」に対して与えられる(民訴法一一八条)。右にいう訴訟費用を支払う資力がないとは、貧困で自己及び家族に必要な生活を害するのでなければ訴訟費用を支払うことができない状態をさすと解するのが相当である。

従つて右資力の認定に当つては、申立人の資産及び収入と予想される訴訟費用とを対比して判断すべきものである。しかしこの場合に考慮すべき訴訟費用とは民訴法一二〇条に規定する訴訟上の救助の対象となる裁判費用等に限定すべきでなく、民訴費用法所定の訴訟費用(右裁判費用のほかいわゆる当事者費用も含む)や、更に進んで右民訴費用法に規定されていないが、具体的事件に応じ訴訟の遂行に必要不可缺とみられる訴訟のための必要経費をも含むと解すべきである。即ち訴訟救助に関する前記規定を、「裁判費用等」のみを対象とするものであり、従つて申立人の資産又は収入の中から少くとも右「裁判費用等」を支払う資力があれば、たとえ右支払の結果、その他の当事者費用や前記必要訴訟経費の支払が不能になつても救助すべきでないと解するのは相当でない。無資力なりや否やは右の如く訴訟費用の費目毎に判定すべきものでなく、資産及び収入から訴訟費用及び必要訴訟経費を支弁することが可能か否かを申立人の必要生活費用との関連において全体的に判断すべきものである。そしてその結果認められた無資力者に対し民訴法はこれら訴訟費用及び必要訴訟経費のうち、最少限の「裁判費用等」についてだけ救助を与えるものであると解するのが相当である。

従つて右認定に当つては(イ)訴状貼用印紙、送達に要する費用、証人、鑑定人等に支給する旅費日当等のいわゆる裁判費用、(ロ)当事者の訴訟提起準備のための調査研究費、通信連絡交通費、書類作成謄写費等の費用のうち権利の伸張又は防禦に必要なる限度のいわゆる当事者費用、(ハ)これら法定の訴訟費用のほか、専門的知識、技能を有する弁護士(その他事件によつては弁理士)をして訴訟に当らしめなければ遂行不能の如き複雑又は困難な訴訟において、当事者が選任した弁護士に支払う費用及び報酬等を総合して判断すべきである。

若しこのように解さず、訴訟提起の準備として必要経費を支出しているとか、前記の如き複雑な事件について弁護士に委任している点をとらえ、かかる費用の支出が可能であるなら、まずその資金を裁判費用に当てるべきであるとし、訴訟救助を許さないとすると、その当事者は、右裁判費用調達のため、訴訟準備のための調査、研究を中止したり、弁護士に対する委任を断念するしかないであろう。かくては訴訟救助は、せいぜい当事者自身で遂行できる程度の軽徴な事件についてしか効用を発揮できないこととなり、その結果たるや不当であることは明白である。

二、そして右資力の有無は原則として申立人本人について判断すべきであるが、申立人が未成年の子である場合は親権者の資力をも斟酌考慮すべきである。即ち親権者は未成年の子の財産を管理し、又はその財産に関する法律行為についてその子を代表するものであり、従つて未成年の子を当事者とする訴訟においては、親権者が法定代理人として自己のためにすると同一の注意義務をもつて訴訟を遂行することができる点に照らせば、当該訴訟における訴訟費用や必要経費は親権者自身の資金をもつてこれに充て後日精算する方法をとることは充分に可能であり、むしろ財産管理権行使の方法としては妥当であると解されるから、訴訟救助申立については、未成年の子の資力のみならずその親権者の資力をも斟酌考慮するのが相当である。

抗告人は、未成年の子に限らず、妻が申立人の場合の夫の資力、父又は母が申立人の場合の成人の子の資力その他扶養義務ある親族の資力をも考慮すべきである旨主張するが、これら親族間には前記の如き親権者と未成年の子間の如き関係がない上、申立人の個人的な訴訟のための費用の如きは一般に親族間の身分関係維持のための結合、共助に直接奉仕するものでないから夫婦間における協力、扶助義務、又は婚姻費用負担義務、親族間の扶養義務等の履行としてその負担又は立替を要求することはできないものであり、従つて特段の事情の認められない限り申立人とこれら親族との間に訴訟費用や必要経費の支弁を求むべきであるとして、これらの者の資力を斟酌考慮するのは相当でないと解される。

そして本件においては、被抗告人らの親族について右特段の事情が存在することについての疏明はない。

三、本件被抗告人らは、右資力の認定に関し、被抗告人らは、本案事件において同種の被害を受けた者、又はその相続人として原告団を構成していることから、本件訴訟救助における資力の認定についても画一的、集団的に把握すべきであると主張するが、訴訟救助は無資力者に対する国の扶助制度であり、本来補充的なものとみれば、その認定ないしは適用は個別的、属人的にならざるを得ない(民訴法一二一条)し、また右の如く本案訴訟を集団的に遂行しているという事と訴訟救助を誰に与えるかという事は無関係であり、原告団の中に救助を与えられた者とそうでない者がいるため費用の予納等の点に関し事務上若干の繁雑さを生ずることはあつても、右資力の認定まで画一的、集団的に行わなければならないという要請は全くない。

また被抗告人らは、資力の認定は相手方の資力と対比し、相対的に判断すべきであると主張する。そして本件において抗告人は我国有数の企業であつて絶大なる資力を有するものであるから、これと対比すれば一個人たる被抗告人らは個別的な資力を問題とするまでもなく、すべて無資力者に当るというべきである旨主張するが、訴訟救助は、申立人の資力の有無をもつて適否を決すべきものであり、相手方の資力は全く関係がないから右主張は採用できない。

その他被抗告人らが主張することは、事情として考慮すべき点はあるとしても、前述の如き個人的な資力の有無の認定を経由せずに、直ちに訴訟救助を与えるべき事由に当るとはいえないから右主張はいずれも採用できない。

四、そこで以上判断に従い被抗告人らの資力につき個別的に審理する。

1、この点につき被抗告人らは、従来より訴訟救助申立事件につき慣例として提出されている民生委員による無資力証明書、市町村長に生活扶助を受けている旨の証明書等公的機関の証明書を提出せず、被抗告人本人作成の報告書、又はイタイイタイ病対策協議会会長申立外小松義久など第三者作成の報告書その他住民の所得に関する統計書類等を提出し、被抗告人らの無資力を疏明せんとしている。しかし右無資力は疏明することを要するものであるが、法律上疏明方法に関する特別の制限はないから、前記公的な証明書に限定されることなく、その他の疏明方法によることも許される。そして前記所得に関する統計書類等である原審四一〇号疏甲一六五ないし一七五号証、当審二一号疏甲三九五号証を総合し、その他被抗告人らは、自分自身又はその被相続人らがイタイイタイ病その他これに類する疾病にかかり、長年療養を続けそのため家計に悪影響を与えたことが充分に推定されることなど本件申立の全趣旨を附加して判断すると、前記被抗告人ら提出の各報告書の記載内容は必ずしも不当なものとは認められず、本件無資力疏明のための資料になり得るものというべきである。

2、原審四一〇号疏甲一八九ないし二一六号証、二一八ないし二三九号証、二四一ないし二四五号証、二四七及び二四八号証、二五〇ないし二八八号証、二九〇ないし三〇三号証、三〇五ないし三一〇号証、三一二ないし三一九号証、原審八六号疏甲一五ないし二三号証、二五号証、原審五二六号疏甲五ないし八号証、原審六二号疏甲一四号証、当審二一号疏甲三四二ないし三九三号証、当審二五号疏甲一九号証、二一及び二二号証、二四ないし三一号証によると、被抗告人針田行起(二二六)、同武部美喜(二三七)、同花岡信政(二六〇)、同竹内重信(二九九)、同若林良昭(三九九)を除くその余の被抗告人らはいずれも、(イ)無資産者、(ロ)無収入者、(ハ)資産はあるが、自己及び家族の生活を維持し(居住用の宅地建物)又はこれらの必要生活費を得るための生産手段(農業における田、畑、及び附属山林)となつているものであつてこれを処分換金するときは右生活を害することになる者、(ニ)収入はあるが概ね年収金一、〇〇〇、〇〇〇円以下であり、その家族構成等に照し右収入はすべて自己又はその家族の必要生活費に費消せられ余剰がない者(一ないし六一、六三ないし八六、八八ないし一五三、一五五ないし二〇六、二〇八ないし二二五、二二七ないし二三三、二三五及び二三六、二三八ないし二五九、二六一ないし二八五、二八七ないし二九八、三〇一ないし三〇九、三一一ないし三一四、三一六ないし三三〇、三三二ないし三九二、三九四ないし三九八、四〇〇及び四〇一、四〇三及び四〇四、四〇六ないし四一八、四二〇ないし四四三、四四五ないし四五三、四五五ないし四六一の被抗告人)、又は(ホ)右以上の収入はあるが概ね年収一、五〇〇、〇〇〇円以下であり、その家族構成等に照らし右収入は自己又はその家族の必要生活費に費消してなお若干の余剰を生ずるが、その余剰の程度では本案訴訟の訴訟費用や必要訴訟経費を充分に支払うことができない者(六二、八七、一五四、二〇七、二三四、二八六、三〇〇、三一〇、三一五、三三一、三九三、四〇二、四〇五、四一九、四四四、四五四の被抗告人)にそれぞれ該当することが疏明される。

従つて以上の被抗告人らは本件訴訟に関して無資力者に当るものというべきである。

3、原審四一〇号疏甲三一一号証、三一八号証、原審六二号疏甲一四号証によると被抗告人針田行起(二二六)は富山市にて菓子商を営み年収金二、一〇〇、〇〇〇円、同武部美喜(二三七)は富山県婦負郡八尾町にて漆器商を営み年収金二、〇〇〇、〇〇〇円、同花岡信政(二六〇)は富山市にて印刷業を営み年収金二、〇〇〇、〇〇〇円、同竹内重信(二九九)は同県婦負郡婦中町にて土建業を営み年収金三、四七七、五〇〇円、同若林良昭(三九九)は足利市にて電機商を営み年収金二、〇〇〇、〇〇〇円をそれぞれ得ていることが疏明される。そして原審四一〇号疏甲一二一号証の一ないし一〇、一二二号証の一ないし一一、一二七号証の一ないし九、一三六号証の一ないし九、原審六二号疏甲二号証の一ないし一三、当審二一号疏乙二八五号証、二九五号証、三一三号証、三四八号証、当審二五号疏乙三一号証によつて疏明される同被抗告人らの家族構成等を考慮しても特別に自己及びその家族のために多額の必要生活費を支出しているともみられないから、結局右被抗告人らは右収入をもつて本審訴訟の訴訟費用や必要訴訟経費を充分に支払うことができる者といわねばならず、無資力者に当らないことが明らかである。

4、抗告人は本案訴訟における一人当りの訴額は金五、〇〇〇、〇〇〇円以内であり、民訴印紙法による印紙額は金二六、三〇〇円以下であつて、その他の訴訟費用を考慮しても一人当り数万円以下の費用の負担があるに過ぎない旨主張するが、前記第二、勝訴の見込の部分掲記の各疏明、その他本件申立の全趣旨を総合して疏明される本案訴訟の規模、性格に照らすと、右印紙送達費等裁判費用のほか当事者の訴訟提起準備のための調査研究費、通信連絡交通費、書類作成謄写費、弁護士に支払う費用等の合計が多額に上ることが予想せられこれらは権利の伸張又は防禦に必要であると解されるので、抗告人主張の如き程度の費用の支出では訴訟は遂行できないものといわねばならない。もつとも被抗告人らも右各費用その他の費用の合計は算定又は予測不能の程度に達するほど巨額である旨主張しているが、本件各疏明を検討するもこの点を疏明するに足るものはない。以上の各主張は前記2及び3の判断に照し採用できない。

第四、結論

以上によると本件訴訟上の救助申立は、被抗告人針田行起(二二六)、同武部美喜(二三七)、同花岡信政(二六〇)、同竹内重信(二九九)、同若林良昭(三九九)らについては理由がなく、その余の被抗告人らについては理由がある。すると被抗告人ら全部について申立を認容した原決定は右被抗告人針田行起他四名の部分につき失当であるから同部分を取消し、同被抗告人の申立を棄却し、その余の被抗告人らに対する抗告を棄却し、抗告費用の負担につき民訴法八九条、九二条、九三条、九五条を適用して主文のとおり決定する。

(裁判官 中島誠二 黒木美朝 井上孝一)

別紙

抗告人主張の理由書 (一)

第一、抗告人の即時抗告の理由を次のとおり陳述する。

(一) 我国の民事訴訟法第一一八条に所謂訴訟費用とは、民事訴訟に関して支出する一切の費用ではなく法律(民事訴訟費用法、民事訴訟用印紙法、訴訟費用臨時措置法、執達吏手数料規則)で特に訴訟費用と認めた訴訟上の費用に限るものであり、訴訟救助は訴訟費用の支弁をすることを得ない無資力者に対し、民訴法第一二〇条の範囲内で与えられるものであることは原審における被抗告人の疏甲第一八三号証四九九頁、五〇〇頁の記述によつても明らかである。

(二) 被抗告人の提出に係る民訴法第一一八条の訴訟救助に関する諸々の学説、即ち、救助の範囲に弁護士報酬を包含せしむべきであるとか、疏明については之を寛大にする-即ち民訴法第一一八条の規定を拡大解釈すべきであるとか(特に公害又は自動車事故について)等の説をなす者の論文は凡て立法論の域を出ず、本件の解釈としては、現段階に於て許されないものと謂わざるを得ないのである。又訴訟救助についての規定は、訴訟当事者各個について無資力であるか否かを判定すべきものであり、所謂属人的のものであることは云う迄もない、従つて共同訴訟の場合においても、訴訟救助について各当事者につき個別的に判断すべきものであり、集団訴訟であるからといつて個々人についての判断をせず、当事者全体を対象として救助すべきか否かを判断することは許されない。このことは本件の如き所謂「公害訴訟」だからといつて例外たるを得ないことを云うを俟たないところである。然るに原決定は民訴法第一一八条に所謂訴訟費用とはいかなる範囲のものを指すかについては何等の判断をなさず、「本件公害訴訟の規模性格等にかんがみるときは、この訴訟の提起を準備し、かつこれを維持し、追行するため調査・研究費、通信連絡・交通費、諸書類作成・謄写費、弁護士費用などはもちろん、鑑定、検証、多数当事者、証人取調べなどの費用として計り知れない出費を余儀なくされるであろうことは推測するに難くなく、このような多大の費用と比較して考えるときは前記のとおり申立人らの一部に本件疏明資料にあらわれた程度の収入があつてもこれらのものもまた民事訴訟法第一一八条にいわゆる訴訟費用を支払う資力のない者にあたると認め訴訟上の救助を付与するのを相当とするべく云々」と判示した。

併し乍ら原決定の右判示は次にのべるような二つの大きな誤を冒した違法のものである。

(イ) 先ず原決定は前述したように民訴法第一一八条の訴訟費用とはいかなるものかについて明確な判示をせず、「訴訟の提起の準備、調査研究費、通信連絡・交通費、諸書類作成謄写費、弁護士費用、鑑定、検証、多数当事者証人取調などの費用」などを列記したが、右のうち交通費とはいかなる種類の交通費及び諸書類の作成謄写費とはいかなる範囲の費用を指すのか不明であるが、その大部分は恐らく民訴法第一一八条に謂う「訴訟費用」に包含されるものが大部分であると考えられるし、鑑定検証の費用に至つては明らかに民訴法第一一八条の訴訟費用に該当するのであつて、原決定がこれらの点についての明確な認識を欠くがため漫然とこれらの莫大な費用を支払えば、たとえ被抗告人の一部に収入のあるものがいたとしても、これらの諸費用を払えば結局これら収入のある者も無資力者となるものと判定したのは、民訴法第一一八条の訴訟費用の観念についての認識を欠くか又はこれを誤り、本来訴訟費用と目されるものとその他の裁判費用(民訴法一一八条の対象とならない費用)を混こうし、これらを負担すれば無資力となつて、本来の訴訟費用を支払い得ない無資力となると判断したのは本来共同訴訟と雖も訴訟費用は各人別に無資力なりや否やを判断すべきにも拘らず、漫然と集団訴訟を一体として救助の対象とした違法があるものであつて、この点に於て許されないものといわねばならない。

(ロ) 原決定は前記の如く「計り知れない出費を余儀なくされるであろうことは推測するに難くなく」と判断した。苟も訴訟救助を付与する法意は資力なきものが訴訟による救済を得ることができないことのないようにするためのものではあるが、無資力の認定については、之を合理的且厳格にすべきものであることは云うを俟たないところであると解する。そうだとすれば、仮りに原決定の如く集団訴訟について全体的に観察するとしても被抗告人の中の一部に収入のあるものがあると認定した原決定は須らく、それが被抗告人の中の何パーセントの者であり且その額が幾何であつて、それだけの収入があつても(収入のみを無資力の認定基準としたことの違法性については後述する)尚且無資力者と認めざるを得ないと判断するには大凡そ原決定の云う「計り知れない費用」とは幾何の額であるかを疏明に依つて一応認定しなければならない筈である。そして然る後被抗告人の収入の総額と比較しなければ、原決定のような結論は到底得られない筈であるにも拘らず原決定は何等この点に意を用いず、疏明の提出も求めず、右のように判断した。試みに添付書面による被抗告人の一部の者(その数一五九名)の総収入は年額一億七百九拾九万円に上る。今日訴訟費用についての一応の通念からみても本件訴訟に於て右の額以上の出費があるものとは考えられないと同時に訴訟の費用は一時に之を支出するものばかりではないのであり、被抗告人等は来年度も亦同額の収入があると予想されるものであるから、之を以て無資力と認定するのは著しい誤判であり、且又審理不尽、採証の法則にも違反したものであるといわねばならない。

(ハ) 前述の如く原決定は「はかりしれない出費」と判示した出費の中に「弁護士費用などはもちろん」と判示している。そこで本件についてみると被抗告人等の依頼した弁護士の数は正力喜之助外二九八名というぽう大な数に及んでいる。斯る多数の代理人が何が故に必要であるかは抗告人の窺い知るところではないが、かゝる多数の弁護士に支う原決定の云う「弁護士の費用」は恐らく莫大なものといわざるを得ないであろう。果してこのような異例な多数の弁護士に依頼した費用を支弁した結果無資力となつたとするならば、経済的には結局は国家の費用を以て弁護士を依頼したことゝなるのであつて、果してこれが民訴法第一一八条の保護を受けうる場合に該当するものと謂えるであろうか、この点からみても原決定は到底維持さるべきものではないと云わざるを得ない。

第二、原決定は、その理由において、本件疏明資料によれば、被抗告人(第一審申立人)はいずれも訴訟費用を支払う資力がないものとし、さらにこれに付加して、被抗告人の一部には収入があるが、訴訟の準備、維持、追行のため計り知れない出資を余儀なくされるであろうことは推測するに難くないので、疏明資料にあらわれた程度の収入があつても、これらの者もまた民事訴訟法第一一八条にいわゆる訴訟費用を支払う資力のない者にあたると判示している。即ち、原決定は、わざわざ収入のある者もあることを摘示して、支出の面にとくに言及しているのであつて、右のような判示に徴すれば、原決定は、民事訴訟法第一一八条の訴訟費用を支払う資力なき者を認定するに当つては、収入のある者については、別途支出の面を考慮するものとし、収入のない者については、そのことをもつて直ちに右法条にいう無資力者に該当するものとして、このような法解釈のもとに、本件救助に及んだものということができる。

しかしながら、原決定が、民事訴訟法第一一八条を右のように解釈したのは、次に述べるように全く誤つている。

そもそも、民事訴訟法第一一八条にいう、訴訟費用を支払う資力なき者とは、貧困で自己及び家族の生活を害するのでなければ、訴訟費用を支払うことができない状態にある者を意味するとするのが判例通説である(大審院昭和四年七月六日決定法律新聞三〇三七号九頁・兼子一編判例民事訴訟法上巻四二〇頁、菊井・村松民事訴訟法I三八三頁)。しかして、訴訟費用を支払うことにより生活が害されるに至るかどうかを認定するに当つては、救助申立人の生活状況につき、どの範囲の事情を考慮するのが民事訴訟法第一一八条の正当な解釈といえるか問題になるが、乱訴を防ぐ一方真の生活困窮者を救助するとの立法趣旨に照せば、申立人の収入はもとより、財産・家族の経済状態をも考慮すべきが当然のことである。このことは第一、(二)に述べた無資力の判定は属人的に個々人について之を判定しなければならないという主張と矛盾するものではない。

判例も、古くから、右述の事情を考慮するのが、民事訴訟法第一一八条の正当な解釈としているのであつて、とくに本人が訴訟費用を支払う能力がない場合でも、その扶養義務者の関係にある近親者が十分な資力を有するときは、その資力をも考慮して救助の要求を否定してもよいとするのである。此等判例の主要なものを二、三例示すれば左の通りである。

大審院明治三五年五月六日決定民録八輯五巻一七頁「抗告人カ原院ニ提出シタル芝区長川崎実ノ証明書ニハ抗告人ノ財産並ニ家族ノ実状及ヒ其納ム可キ直税ノ額ニ関シテ開示スル所ナク……抗告人カ訴訟費用ヲ支払フ資力ヲ有セサル事実ヲ認定スルニ由ナキモノトス」

東京控訴院大正一〇年四月一四日決定評論一〇巻民訴一一七頁

「訴訟上救助ノ申請ニハ之ト共ニ管轄市町村長ヨリ発シタル証書ニ拠リ申請人ノ身分職業財産並ニ家族ノ実況及其納ムヘキ直税ノ額ヲ開示シテ訴訟費用支払ノ資力ナキコトヲ証ス可キコト勿論ニシテ戸籍謄本並ニ各証明書ニ拠リテハ申請人カ本籍地ニ於テ資産ヲ有セサルコト寄留地ニ於テ土地家屋ヲ有セス租税ヲ納メサル事実ヲ認メ得ルニ止マリ其他ノ事項ノ証明ヲ欠キ申請人カ自己及ヒ家族ノ必要ナル生活ヲ害スルニアラサレハ訴訟費用ヲ出スコト能ハサル者ナルコトヲ認ムルニ足ラサルトキハ其申請ヲ許可スヘキモノニアラサルモノトス」

東京高裁昭和四二年七月四日決定判例時報四八八号六四頁

「疏明によると、抗告人はその有する不動産や債権など主要な資産のすべてにつき会社更生法や民事訴訟法上の保全処分を受け、もしくは相殺されるなどして、他に格別の収入もなく、前記の訴状貼用印紙を含む訴訟費用を支弁する資力はないものと一応認められる」

東京地裁昭和一四年六月三日決定法律新聞四四八三号一〇頁

「申立人カ無資産ニシテ訴訟費用ヲ支弁シ能ハサルコトハ前掲各証明書ニヨリ窺知シ得ヘキモ凡ソ未成年ノ子ハ無資産ニシテ其父又ハ母等ニヨリ扶養ヲ受ケ生活ヲナスヲ通常ノ事例トシテ従ツテ其ノ子カ当事者トシテ関与スル訴訟ニ於テモ同人ノ負担スヘキ訴訟費用ハ其父又母ニ於テ支弁スル責ニ任スヘキト解スルヲ正当トナスヲ以テ訴訟上ノ援助ノ必要ノ有無ヲ判断スヘキ場合ニ於テモ只単ニ未成年者ノ資力ノミナラス其父母等ノ資力ノ有無モ斟酌考慮スルヲ相当トシ」

叙上のように、単に救助申立人に収入がないからといつてそのことだけをもつて直ちに訴訟費用を支払う資力なき者に該当するとは決していうことができないのであつて、収入がなくとも、他に財産があつたり、申立人に財産収入がなくともこれを扶養すべき関係にある家族に収入ないし財産があつたり、共同相続人全員が申立人の場合のように、相続人が協力すれば訴訟費用が支弁できる事情にあつたりするときは、救助の付与は否定されなければならない。

しかるに、原決定は、前記のように、被抗告人に訴訟救助を与えるに当つて、収入のみしか考慮せず、しかも収入がなければ、直ちに民事訴訟法第一一八条の訴訟費用を支払う資力なき者に該当するものとしたのであつて、この点に於て法律の解釈を全く誤つたものであると同時に、審理不尽の違法があるものといわねばならない。

第三、

(一) 原決定は、前述したように本件疏明資料によつて、被抗告人の一部に収入があり、その他の者に収入がないと認定した。しかして、被抗告人の収入の有無に関する資料としては、本件では、被抗告人本人作成の報告書(疏甲第一八九号ないし第三一七号証)とイタイイタイ病対策協議会会長小松義久作成にかかる調査報告書(疏甲第三一八号証)のみである。

しかしながら、救助申立の疏明については、旧法時代からの慣例として民生委員による無資力証明書、市町村長による生活扶助を受けている旨の証明書、所得税を納めていない旨の証明書等が実務上使用されているのであつて、それは、このような公的機関の証明によつてはじめて無資力が疏明されるからにほかならない。しかも、このような第三者の証明書であつても、単に「申請人は無資産者に相違ない」とのみ記載したにすぎないときは、無資力を証明できないものであるとされている。

(大審院明治三五年六月五日法律新聞九四号二七頁)。

しかるに、原決定の認定の根拠となつた疏明資料は、前記のように、小松義久の報告書を除いては、被抗告人本人の報告書であつて、しかも報告書の内容たるや単に収入なしとか金何円とか記入されてあるだけにすぎない。斯る書類は元来極めて信憑力の乏しいものであつて、これのみによつて収入の有無、程度を判定することは、たとえ疏明手続であるとしても、到底なし得ないところである。もし、斯る本人の報告書のみで判定し得るとすれば、被抗告人本人が収入なしと一筆自書したのみで、容易に無収入が認定されることになり極めて不当である。また小松義久の報告書にしても、同人が前記のように被抗告人等と認めて密接な関係のある人物だけに、何ら客観的な確実性が担保されている訳ではなく、寧ろ信憑性の極めて乏しいものである点に於ては、被抗告人本人の報告書と何等選ぶところがないといわねばならない。

このように、疏明書類のみでは収入の有無、程度の判定がなし得ないことに加えて、前記のような公的機関の然るべき証明書が容易に入手できるにも拘らず、本件疏明資料として提出されていないこと、富山地方裁判所昭和四三年(ワ)第四一号のいわゆる第一次訴訟の当事者は、本件被抗告人と特段に異なる事情が存在しないにも拘わらず訴訟救助の申立をすることなく訴訟を準備し維持追行していること、原告側の証拠によつていわゆるイ病患者家庭は貧困状態にないとされていること等の諸事情に鑑みれば、報告書のみによつて収入の有無程度を判定した原決定は、採証の法則に反し審理不尽でありそのため、事実誤認を来したものであることは明白である。

(二) 原決定は、収入についてのみならず、被抗告人について、前記のように財産、家族の状況等を考慮斟酌すべきところ、法の解釈を誤つてこれを全く怠つた点においても審理不尽の違法がある。

これをさらに具体的に述べれば、次の通りである。

(イ) いわゆるイ病患者としての相手方について

仮に現在病気によつて勤労することができず、収入がないとしても、前述のように財産の有無程度を審理すべきであり、また扶養義務者が存在し、現に扶養を受けていることが明らかであるから(この点は前記報告書の一部にも明記されてある)、扶養義務者について、無資力者であるかどうか審理すべきである。

(ロ) 死亡患者の相続人としての相手方について

共同相続人が共同訴訟を提起しているのであるから、共同して訴訟費用を支弁し得るかどうかを検討審理すべきである。さらに、小松義久の報告書では、女子の共同相続人が概ね収入財産がないとされているが、(一)と同様に夫とか親とか子とか扶養義務者が存在するのであるから、此等について資力の有無程度を検討すべきである。

以上の二点について何等の検討もせず、疏明をも要求しなかつた原決定は採証の法則に反し著しい審理不尽の違法があるといわねばならない。

第四、勝訴の見込なきにあらざるものとした原決定の不当性

富山地方裁判所昭和四三年(ワ)第四一号損害賠償請求事件に関する被抗告人の主張はカドミウムによつていわゆるイ病が発生したと云うのであつて、抗告人は之を否認しているものであるが、その因果関係は、数々の問題をはらみ、いまだ科学的に解明されていないのであつて、原被告のいづれを勝訴させるかの結論は、科学的に立証された後でなければ出し得ない性格のものである。被抗告人は昭和四三年の厚生省見解を援用するが、右見解は、自から告白しているように、行政的見地から打ち出されたものであり、その後見解それ自体の内容も変化をみせており、斯る見解をもつて、勝訴の見込なきにあらざるものの資料となし得ないのはいうまでもない。また被抗告人は、石崎、小林、萩野各証人の証言によつて因果関係が明らかにされたと主張しているが、此等証人によつても何等カドミウムとイ病の間に因果関係が存在することについては解明されておらず、イ病の原因は今日尚明確にされていないのである。

抗告人は、数次にわたる準備書面において被抗告人の主張の不当性について反論し、多数の証人を申請し、さらに専門家の鑑定を申請し勝訴を確信しているものであるが(疏乙第一号乃至第二号証)抗告人側の立証は去る二月十四日漸く最初の証人である富田国男医師の証言の段階に入つたばかりであつて、従つて現段階において突如被抗告人に勝訴の見込ないとは云えないとした原決定は、訴訟について予断偏見を抱くものというほかなく、極めて不当であると云わざるを得ない。

第五、結論

これまで述べたところから明らかなように、原決定は数々の誤りをおかしており、すみやかに取り消さるべきである。抗告人は、第一次訴訟の原告らが訴訟救助の申立をしていないこと、いわゆるイ病患者の治療が公費で行われるに至つたこと、原告側の証拠によつても患者家庭は貧困状態にないとされていること、訴訟費用額が被抗告人一人当りにすれば極めて少額であること等に照してみても、すでに被抗告人には訴訟費用救助を受ける無資力状態にないものと思料するものである。たしかに、多数の被抗告人につき、逐一付与の条件を検討するのは、非常に手数のかかる煩雑な仕事であろう。しかし、それにも拘わらず、民事訴訟法は、被抗告人各人毎に個々に条件を検討することを命じ、被抗告人らの主張するように、集団的に処理することは、決して許容していないのである。

抗告人主張の理由書 (二)

第一、公害裁判であつても訴訟救助に特別扱は認められない

相手方は、本件の如き公害裁判についての訴訟救助に対しては、裁判所は特別の扱いをすべきであるといわんとするように思料される。

しかしながら、裁判所が相手方の主張するように、訴訟事件の種類、内容によつて、訴訟救助に特別の扱をなし得る権限を有しないことは民訴法上明白であるといわねばならない。けだし、訴訟救助の制度は、相手方がいうように、救助付与の許否を裁判官の行政的専権としたものではなく、それはあくまで法律の定める要件に則して行なわれなければならないものであることは明らかであるからである。

即ち、訴訟救助は民訴法第一一八条に定めるとおり「訴訟費用を支払う資力なき者」に対して与えられるものであつて右「訴訟費用を支払う資力なき者」の認定が訴訟事件の種類、内容によつて区々に取扱うことが許されないのはもとより、認定にあたつての疏明程度も、一方を軽くしたり、他方を重くしたりすることは許されないのである。

もし以上のようなことが許容されるとすれば、真に「訴訟費用を支払う資力なき者」を救助しようとする法の精神は、裁判官の専断によつて、全く無視されてしまうことになるであろう。

加うるに、相手方は、「相手方の一部につき訴訟救助決定を取消すこととなれば、公害訴訟を維持する上で不可欠な原告間の共同歩調を裁判所自から分断することとなり、ひいては原告の権利行使そのものを永久に阻害する結果とさえなり得る」と主張して、訴訟救助について、多数の相手方を集団的に一律に救助すべきことを求めているかのようであるが、訴訟救助は相手方各人毎に真に救助を与えるべき経済状態にあるかどうかを疏明によつて判断したうえ行なわれるべきものであつて、集団的扱が許されないものである。これを若干補足説明すれば、相手方に訴訟費用支払の資力がある限り(現に相手方のうちには資力を有する者があることは、相手方自身の疏明でも、又抗告人の提出した疏乙号証によつても明らかである)、その者の救助は否定されるのが当然であつて、一部の者に仮に資力がなかつたとしても、それが故に資力ある者にまで救助を与えるということになれば、乱訴の弊を招く結果をきたし、全く民訴法の救助の精神にも反する違法な決定であり、取消を免れないのである。しかして、相手方は、原告間の共同歩調を分断する云々と誇大に主張するが、斯る事柄はそもそも救助決定とは無関係であるのはいうまでもない。さらにいえば、相手方においてすら「救助の経済条件判断に当つても申立人自身のそれぞれの訴権として、申立人それぞれの経済条件を基準に斟酌されるべきものであることは自明のことである」として、訴訟救助が各人毎に審理されなければならないことを自認しているのである。

以上のとおり、相手方の主張は民訴法に違反する違法な主張であつて、何ら取るに足りないものである。或は、相手方の一部の救助決定を取り消すのが、共同歩調を分断し原告の権利行使を阻害すると主張し、或は原決定について、イ病患者らが「公害訴訟に対処する裁判所の態度に敬意を表し感謝の声明を発表している。」、「その意味で公害訴訟を通して司法制度に対する国民の信頼にこたえたものとして、極めて重要な意義をもつものということができる」等と主張しているが、此等はいづれも裁判所に対する恫喝-もし原決定を取り消せば、外部 からの非難を受けるであろうという意味での-にすぎないものというほかはない。いうまでもないことであるが、裁判所は、斯る相手方の一連の感情論的主張に惑わされてはならないのである。

現に、昭和四五年八月一三日の朝日新聞(疏乙第六〇一号証)の報ずるところによれば、大阪空港での夜間飛行の禁止と騒音による慰謝料請求を内容とする所謂大阪空港騒音訴訟事件の原告二八人の訴訟救助申立に対し、大阪地方裁判所は同月一一日原告らのうち、収入が老人年金、遺族年金のみの者三人に訴訟費用全額の救助を与え、訴訟費用の支出によつて生活に支障を来たすとみられる一〇人には一部の救助を与え、他の一五人については救助の申立を却下した。

右のように、訴訟救助は、所謂公害訴訟等の集団訴訟においても各原告につき個別的に判断せらるべきものである。

第二、即時抗告権の存在について

相手方は、抗告人が本件訴訟救助決定によつて、実質上不利益を蒙ることがなく、従つて利害関係がないから、抗告権も存在しないと主張する。

しかしながら、これも次に述べるところから明らかなように、民訴法の解釈を全く誤つた見解である。

そもそも、抗告人を被告とする相手方からの損害賠償請求訴訟には、訴状に所定の印紙を貼用するのが訴訟要件とされ、相手方が印紙を貼用しない限り裁判所は訴訟要件が欠如するものとして当該訴状の送達を相手方に対してしないのは勿論、無効な訴として却下をせざるを得ないものであるが、提訴者が訴訟救助決定によつて、訴状への印紙貼用を猶予されることになれば、抗告人は、本来応じなくともよかつた訴訟に応訴して、訴訟の遂行行為をすることを余儀なくされるに至るのである。従つてこの意味で、抗告人は、救助決定に対し重大な利害関係を有するものと言わねばならないのである。

さらに若干観点を変えてみても、民訴法第一二四条は、「本節ニ規定スル裁判ニ対シテハ即時抗告ヲ為スコトヲ得」と規定するのであるが、右条項は当然違法な救助決定に対して被救助者の相手方(本件では抗告人)に即時抗告による取消の機会を与えたものと解釈すべきである。何故ならば、同条はとくに抗告人を限定していないし、さらに被救助者の相手方(本件でいえば抗告人)に即時抗告権を認めないとすれば、たとえ違法で取り消さるべき救助決定がなされたとしても、結局違法な決定を取り消し是正する機会はないことに帰し、民訴法第一二四条の規定の趣旨は没却されることになるからである。

このように、いずれの観点よりみても、抗告人に即時抗告権の存在するのは疑いのないところであつて、大審院の判例(昭和一一年一二月一五日決定民集一五巻二四号二二〇七頁)も利害関係のあることを前提として明瞭に即時抗告権を是認し、これに従う学説が多いのである(菊井維大=村松俊夫民事訴訟法I三八五頁、実務民事訴訟法講座2判決手続通論一八五頁内田武吉訴訟上の救助)

よつて、本点に関する相手方の主張も失当というほかはない。

第三、即時抗告理由に関する相手方の反論に対する再反論

相手方は、昭和四五年三月一四日付抗告人準備書面の即時抗告理由に対して、主として同年六月一五日付意見書(第三回)によつて種々反論を試みているようであるが、以下に述べるように、これも全く理由がなく不当である。

一、意見書(第三回)の第二の反論について

(一) 相手方は、「抗告人が何故訴訟遂行の各費用について逐一『民訴第一一八条の訴訟費用』の概念にはいるかどうかを問擬するのか、全く理解に苦しむところである。」と主張する。

しかし、民訴法第一一八条の「訴訟費用を支払う資力なき者」とは、すでに第一回準備書面で述べた通り、「貧困で自己及び家族の生活を害するのでなければ、民訴法第一一八条にいう訴訟費用を支払うことができない状態にある者を意味する」とするのが判例通説であつて、これよりすれば、訴訟救助を付与するに当つては、相手方各人毎にまず原決定のいう訴訟遂行上の諸費用のうちどれが民訴法一一八条の訴訟費用に該当するかを明らかにし、然る後に右訴訟費用を支払うことによつて、自己及び家族の生活が害されるかどうかを判断すべきである。抗告人が前回の準備書面で援用した東京高等裁判所昭和四二年七月四日の決定もまず救助申立人の訴状に貼用すべき印紙額を算定し、これが四六八万二二五〇円の巨額にのぼることを認定した上で、救助決定をしているのである。しかるに原決定は、右のような事情を一切検討することなく、只漫然と推測せられる多大の費用と比較して考えると無資力者に該当すると判示しているのであつて、まさに判例通説に反する違法な判示であると云わねばならない。そこで抗告人は、右の点を即時抗告の理由の一つとして主張するものであり、相手方の主張こそ抗告人の主張を理解しない不当なものと云うべきである。

(二) 次に原決定が、「本来共同訴訟と雖も訴訟費用は各人別に無資力なるや否やを判断すべきにも拘わらず漫然と集団訴訟を一体として救助の対象とした違法がある」との抗告人の主張に対して、相手方は、「その論旨が不明であり、どうして前の判断が抗告人が主張するような違法であるという結論になるのかまつたくわからない」と反論する。

しかしながら、原決定が一部に収入のある者があつても集団訴訟から生ずる多大の費用と比較して考えるときはこれらの収入ある者も民訴法第一一八条の無資力者にあたる旨判示したのは、まさに相手方各人毎に無資力者該当の有無を検討すべきところを、これを全く怠つて、包括的に無資力者として認定したものにほかならない。従つて、抗告人はこの点も違法であるとして、抗告理由とするのであつて、主張はもともと明白であり、相手方の反論はこれまた不当ないいがかりにすぎないものである。

二、同第三の反論について

(一) 相手方は、民訴法上の自由心証主義にふれ、「しかるに抗告人らは原告が疏明が全くないか、または不十分であるにも拘わらず、救助決定を付与したものであり、採証原則に反する如く反論しているが、この反論は右に述べた民事訴訟法における自由心証主義の法則について無理解を示すものに他ならない」と主張する。

しかし、右のような反論は、民訴法の自由心証主義の何たるかを十分に理解しない者の暴論である。自由心証主義といつても、それは相手方が主張するように、決して裁判官の専断を許したものではなく、論理法則と経験法則(実験法則ともいわれる)に従つた合理的な認定でなければならないのである。通常このことを採証の法則ともいうが、この法則に違反する事実認定は、違法なものとして上告理由にもなるのである(法律実務講座民事訴訟編第四巻四九頁以下自由心証主義、実務民事訴訟講座判決手続通論I二八四頁)。

しかして、抗告人は原決定が最も信用力の乏しい書証によつて軽卒にも相手方の資力の有無を認定したのが、採証の法則に反して違法であり、現実に事実誤認を冒していることを即時抗告の理由とするものであり、自由心証主義を無視しているものでは決してない。さらに具体的に述べれば、抗告人の調査によれば、例えば相手方の疏明には資産を有しないとありながら、現実には資産を有するものが五一名に及ぶのであつて(疏乙第一四号証)、この一事をもつてしても相手方の書証の内容に虚偽が多く全く措信し得ないことが明らかである。それにも拘わらずたやすくこれを信用した原決定は甚しく違法と云わざるを得ないと同時に本審に於ける抗告人の疏明によつて原決定の事実認定が到底維持できなくなつたことは十分に明らかにされたと信ずるものである。

(二) 次に、「公的機関の証明によつてはじめて無資力が証明される」との抗告人の主張に対し、相手方は前掲内田武吉氏の論文を援用して、「抗告人らの市町村長の無資力証明にのみ依存する考え方は法律上の規定の上ばかりでなく、実務上もすでに改革されていることは顕著な事実である」と反論する。

しかしながら第一に抗告人が公的機関の証明によつて云々と述べているのは、無資力を認定するには採証の法則上、信用力のある証明によらなければならないこと、右信用力ある証明の一方法として公的機関による証明があることを述べているに過ぎないのであつて民訴法上の訴訟救助の条文が証拠法定主義を定めた等とはもとより決していつているわけではないのであるから、相手方の反論は当らない。第二に、相手方援用の右論文をみれば、相手方主張とはまるで逆のことが述べられている。即ち、相手方は公的機関の証明以外に多数の資料が救助決定に採用されているとして右論文を援用するのであるが、右論文には「無資力の疏明について用うべき資料は、現行法上は特に法定されていないが(旧法九三II参照)、実務上では民生委員の証明、給与証明、法律扶助協会の扶助決定書など、別表に掲げたものがその主な資料となつている」とあるのであつて(右論文を収めた前掲書一八四頁)、現在においても公的機関若しくはこれと同等に客観性の認められる第三者の証明によつて資力の有無の認定が行なわれていることを皮肉にも論証しているのである。このように第三者の論文を歪曲してまで援用、あえて自説を強引に通さんとする相手方の態度はまことに不当の極みというべきである。

(三) 次に、相手方は「資力の疏明について抗告人がいうように本人作成の報告書(疏甲第一八九号証)とイタイイタイ病対策協議会会長小松義久作成にかかる調査報告書(疏甲第三一八号証)のみに依存しているものではない。むしろ、イタイイタイ病被害地域全域の収入状況をあらわすたくさんの疏明資料によつて十二分に立証づけられている」として、統計資料を援用し、これを操作して無資力を説明しようとする。

しかしながら、問題はあくまでも相手方各自の資力如何であつて、相手方居住地域全体の統計的にみた平均収入等は、救助決定の付与に当つて直接関係のないことであり、斯る事情をいくら詳しく説明し得たとしても、これによつて救助申立者の資力の有無を認定することは到底なし得ないことである。

相手方各人が真に無資力であるならば、抗告人の主張する公的機関の証明は極めて容易に得られる筈である。それにも拘わらず、相手方は本件において公的機関の証明を一通も提出せず、直接関係のない統計資料等を援用しまことに迂遠な説明をするほか、相手方本人と小松義久の陳述書しか提出し得なかつたというのは、むしろ相手方に十分な資力があるからこそ公的機関の証明が求められなかつたものといわざるを得ないのである。

(四) 最後に、原決定が疏明資料も皆無であるのに計り知れない出費を余儀なくされるであろうことは推測するに難くないとしたのは違法であるとの抗告人の主張に対し、相手方は「調査研究費いくら、交通費いくら、というふうにその各費用について逐一疏明がなければ莫大な費用がわからないと主張するのは本件訴訟を全く知らないものの言い草である」と反論する。

しかし、原決定が何等の証拠もなく計り知れない費用支出を推認するに難くないとしたのは、全く非法律的な判断で裁判所としては甚だしく軽卒であり、非合理的なものとのそしりを免れないところである。むしろ、訴訟遂行のための諸費用は原判決の推定に反して極めて少額とみるのが相当である。その理由を具体的に述べれば、富山地方裁判所昭和四三年(ワ)第四一号損害賠償請求事件(以下第一次訴訟事件という)の原告である小松みよ他二七名は、訴訟救助の申立をすることもなく、すでに長期にわたつて訴訟を遂行してきているからである。もし原決定の推認するように、計り知れないほどの費用がかかるとすれば、人数も少い第一次訴訟事件の原告らは、当然相手方と同様に当初から救助の申立に及ぶ筈である。それにも拘わらず、申立をしなかつたのは、数少ない原告らにおいてさえ十分に負担し得る程度の費用しか必要としなかつたからとしかみることができないのである。いわんや相手方は第二次以後の訴訟の原告であつて、此等の者の訴訟では、或程度第一次訴訟事件に顕出された主張、立証を援用することができるであろうから、訴訟遂行の諸費用は第一次訴訟事件のそれに比較して、更に少額とみることができ、これを多数の相手方に均分すれば、その額はさらに少額となるのである。

以上のように、資力の有無を認定するに当つて、訴訟遂行上の諸費用を考慮するものとしても、そのためには何としてもその額を証拠によつて明らかにしなければ結論を出し得ないものといわねばならない。

四、同第四の反論について

(一) 相手方は、妻が原告の場合、訴訟救助の付与に当つて、夫の経済条件を考慮するのは、「家の制度を前提にした妻の無能力論であるが、さもなくば反対のための反対であつて到底、取るに足りないものである」と主張する。

しかしながら、右主張は、民訴法第一一八条に関する判例を全く無視した見解である。申立人が無資産といえどもその扶養者に資力のある場合は本条の適用ないことはきわめて明らかである。

(二) なお相手方は、救助の審理について、一方で個別的判断を主張し、他方で共同相続人の共同支弁の検討を主張し、相互に矛盾するのではないかと、しきりに抗告人を非難するかのようである。

しかしながら、抗告人が、共同相続人の共同訴訟においては訴訟費用の共同支弁ができるかどうかを検討しなければならないと主張したのは、あくまでも、直系血族、兄弟姉妹は、互に扶養する義務があるとの民法第八七七条の規定を前提としているのであつて個別審理の主張とは何等矛盾するものではないのである。

五、同第五の反論について

相手方は、イタイイタイ病の原因が神岡鉱業所が排出したカドミウムであることはすでに国民全体の確信にまでなつているとして、「それにも拘わらず、徒らに打算と利欲にとらわれるの余り、原決定を出した裁判官に対し、『予断と偏見を抱く』という暴論を吐けることに、国民は、むしろ裁判制度のもつている寛容さに怒りさえ感ずるであろう」と主張する。

しかしながら、抗告人は、すでに前回の準備書面でも述べたように、具体的根拠に基いて原決定に異議を申立てているもので、何等非難されるいわれはない。これをさらに具体的にいえば、原決定は、第一次訴訟事件において、いまだ損害の程度、範囲等につき全然証拠調べが行なわれていない訴訟段階にあつて、「いま前記訴訟事件で係争中であるように、長年月、かつ広範囲にわたつて多数の被害をだし、しかもその被害の性質、程度も決して尋常のものでない」と判示した。証拠調べもしないで、どうしてこのようなことがいえるのか、こゝに原決定の「予断と偏見」の具体例が見出されるのである。相手方は、イタイイタイ病の原因が神岡鉱業所から排出したカドミウムであることは、国民全体の確信にまでなつているというが、一体何の証拠があつてこのようなことがいえるのか、抗告人をして言わしむれば、右第一次訴訟事件に於ては、原告の現在迄の立証に於てはイ病とカドミウムとの法律上の因果関係の存在については未だ以て何等明確にされていないのである。

六、同第六結びの主張について

相手方は、第三回意見書第六「結び」の項で、無資力認定の方法等について種々述べているが、此等は、いづれも外国の法制度のもとの意見かもしくは国内立法論としての意味しかなく、現下の民訴法の解釈にはあてはまらないものである。就中民訴法一一八条の「無資力」の判断には、当事者双方の経済力を比較してきめるべきとの説は、立法論としてはともかく、現在の民訴法では到底採用し得ない机上の空論と云うべきである。

第四、結論

抗告人は、従来から、民訴法一一八条の訴訟費用として、本件においては具体的にどの位の額になるのか算定すべきことを主張してきたが、こゝで概略の算定を試みてみよう。

(1)  相手方の賠償請求額の最高は、金五〇〇万円であるから、相手方各人の訴状に貼用すべき印紙額は、民訴用印紙法によつて計算すれば、二六、三〇〇円以下ということになる。

(2)  民訴費用法、訴訟費用臨時措置法によれば、日当として証人に一日一、三〇〇円以内を支払うことになるが、証人の人数は限られたものであるし、これに支払う日当も相手方の人数に均分すれば、一人当りの負担は極めて僅少である。

(3)  以上のほか鑑定人に対する鑑定費用と日当が考えられるが、これも多数の相手方の共同負担であることを考えれば一人当りの費用は、これも僅少となる。(もつとも相手方は鑑定を申し立てていない)

第一審の訴訟費用として、さし当つて考えられるのは、以上のとおりであつてこれによれば、相手方一名の負担する訴訟費用は最高の場合で二六、三〇〇円を若干上廻る程度ということになる。

このように具体的に計算してみれば、高々二六、三〇〇円を上廻る程度の訴訟費用であつて、他に何程かの訴訟遂行諸費用が必要としても(この諸費用が、原決定が推定したほどのものでなく、一人当りの負担額としては、むしろ低額とみるのが相当であるのはすでに述べた)この訴訟費用を支払うことによつて自己及び家族の生活が害されるとは、到底いうことができないのである。現に、訴訟遂行のため諸費用が最も多額に必要と認められる第一次訴訟事件の原告らが、救助申立をすることもなく訴訟を遂行している事実は、何よりも明白に救助の要件が相手方に存在しないこと及び原決定の誤りを裏付けるものである。

よつて抗告人は、原決定が早急に取り消さるべきことを求めるものである。

被抗告人主張の理由書 (一)

第一救助決定に対する即時抗告の不当性

一、本件訴訟救助決定の意義

(一) 富山地方裁判所は、昭和四五年二月二十日、いわゆるイタイイタイ病にもとずく損害賠償請求事件(同裁判所昭和四三年(ワ)第二〇一号、同四四年(ワ)第四六号、同年(ワ)第二六一号)について、申立人すべてに対し訴訟上の救助を付与する旨を決定した。以下、本決定と略称する。)本決定は、もとより申立人らの申立理由及び疏明資料にもとずき裁判所が「申立人らはいずれも訴訟費用を支払う資力なくかつ勝訴の見込みがないとはいえないものであること」を認めたことに外ならないが、結果的には、生活困窮者など、いわゆる絶対的貧困に救助の無資力要件を基礎づけてきた裁判所の伝統的な解釈を公害の本質と実態に的確に適用し、公害訴訟の原告につき一律に救助決定を付与した点に極めて重要な歴史的意義を見出すことができる。本決定は、この点につき「もつとも、右疏明資料によると、申立人らの一部に収入のあるものがないではないけれども、いま前記訴訟事件で係属中であるように、長年月、かつ広範囲にわたつて多数の被害を生じ、しかもその被害の性質程度も決して尋常のものでないなど、本件公害訴訟の規模、性格等にかんがみるときは、この訴訟の提起を準備し、かつこれを維持し、追行するため、調査・研究費・通信連絡・交通費・諸書類等作成・謄写費・弁護士費用などはもちろん、鑑定・検証・多数当事者、証人取調べなどの費用として計り知れない出費を余儀なくされるであろうことは推測するに難くなく、このような多大の費用と比較して考えるときは、前記のとおり申立人らの一部に本件疏明資料にあらわれた程度の収入があつても、これらのものもまた民事訴訟法第一一八条にいわゆる訴訟費用を支払う資力のないものにあたると認め、訴訟上の救助を付与するのを相当とする」と判示している。このことは、過去幾多の公害裁判がその訴訟追行費用の枯渇ゆえに、加害企業によつて不当に権利を蹂躙されてきた歴史的事実にてらして極めて適切な判断であり、また、今日数多くの公害被害者に憲法に認められた「裁判を受くる権利」を保障し、かつ公害の加害企業に対する住民の責任追求の権利を実効あらしめたものとして当然のことであることは勿論である。

(二) それ故にこそ、本決定を受けた、イ病の被害者らは「本決定は、むしろ当然のことが認められたにすぎないものであり、むしろ申請以来一年有余を経たという点で、おそきに失した感すらあります。」と卒直に感懐を述べている。他方、この結果は「多年にわたる苦しみの末、この斗いに立ち上つた私達に対して与えられた、支援団体の運動や、弁護団の活動によつて、裁判所がイ病の悲惨さと深刻さを知り、公害斗争の苦しみや悩みの幾分かでも、感じとることが出来たからだ」と評価し、「裁判所が、このような決定をするに至る過程で多くの人々の裁判所に対する要請があり、与論の支持があつた事に深く感謝すると同時に裁判所の決断を高く評価する」と、公害訴訟に対処する裁判所の態度に敬意を表し感謝の声明を発表している。その意味で、公害訴訟を通して司法制度に対する国民の信頼にこたえたものとして、極めて重要な意義をもつものということができる。

(三) 事実、昭和四三年一〇月、本訴訟救助の申立以来、申立人らの要求は職場に、街頭に多くの人々の支援するところとなり、富山地方裁判所に寄せられた「イタイイタイ病の裁判費用免除と大法廷設置要求の署名」は数万人に達し、他方、被害地域婦中町町議会の要請によつて、県下二九市町議会が訴訟上救助決定ならびに大法廷設置要求の支援決議をなし、この要求は全県に拡がつていつた。婦中町長が、本件訴訟救助決定が発せられるや直ちに、三井金属神岡鉱業所長に対し本決定に対し即時抗告をしないよう親書を発送したことは、このような経過から蓋し、当然のことであつた。

二、抗告人の即時抗告の不法性

(一) 抗告人三井金属鉱業株式会社(以下単に抗告人三井金属と略称する)は、昭和四五年二月二三日本決定を受領し、同月二六日富山地方裁判所に対し、本決定に対し、即時抗告を申し立てた。即時抗告の申立書には、何ら理由が明示されていないが、如何なる理由にしろ、その目的は被害者らを経済的に圧迫しつづけ、イ病裁判をできるだけ引き伸してその志気を砕き責任を不明確にしたまゝ、同裁判を敗訴せしめようとするものであることは明白である。このことは次の理由によつて要約される。すなわち、第一に、抗告人三井金属は裁判所が申立人らに対して本救助決定をなした事によつて、直接何らの実害も発生しない。一般に、救助決定は、原則としてもつぱら申立人と裁判所との側面に係る問題であり、(但し、相手方の申立による担保提供の場合は例外である。)相手方はこれに何らの利害関係も有しない立場にあることは、自明の理である。また、勝訴の見込みの要件についても、民事訴訟法第一一八条は「勝訴ノ見込ナキニ非サルトキ」と消極的に、規定しているから、原・被告双方が救助申立て、それぞれが、その要件を備えることも予想され、双方に救助が付与されることも可能である。したがつて、救助決定が付与されたことによつて申立の対象たる本案の審理における当事者双方の攻撃、防禦方法に何らの消長をきたすものではなく、いわんや、救助決定によつて直ちに本案の結果に影響を及ぼすものでもない。抗告人は、訴訟救助決定によつて何ら実質的利害関係を有しないのであるから、抗告をなす何らの法律上の利害を有しないというべきである。この点において、抗告人三井金属の抗告はそれ自体失当である。

第二に、かゝる訴訟上何らの利害関係を有しないにも拘らず、これを争う抗告人三井金属の抗告の意図はもつぱら、申立人の救助請求権の妨害に向けられているのであつて、ひいては訴権を実効あらしめる憲法の精神に則して認められた訴訟救助制度そのものを否定する反社会的行為と断ぜざるを得ない。

第三に、抗告人三井金属の即時抗告は、すでに申立人らが申立理由書及びその援用にかゝる富山地方裁判所昭和四三年(ワ)第四一号事件の訴状陳述にあたつての補足意見で述べ、裁判所に注意を喚起したいわゆる大藪事件、中間事件にみられるように、鉱害紛争が加害企業の財力によつて押し潰され、また、被害者らが訴訟費用の調達に困窮して示談を申立て訴を取下げた歴史的事実に立ち、申立人らの訴訟救助決定を争うことによつて、しだいに申立人らを経済的に圧迫し、訴を敗北せしめようと企てていることは明らかである。このことはそれ自体極めて非人道的な行為であり、今日、公害絶滅を願う全国民的な運動に挑戦する、反社会的な行為というべきである。かつて抗告人三井金属は申立人らに対し、公的な機関が、イ病の原因について抗告人三井金属にあると認めるならば、直ちに補償に応じましようと、あたかも誠意ある如くみせかけ、厚生省がイ病原因が抗告人三井金属であると発表するや、直ちに前言をひるがえし、訴訟に対しては、引伸しに終始するなど、その非人道性は被害地域の住民のみならず、全国の公害被害者から非難せられている(小松報告書)。そして、今回再び自らの利害には全く関係のない申立人らの訴訟救助決定についても、即時抗告を申立て、妨害した態度は、天人ともこれ許さざるものというべく厳しく批判されなければならない。

第二訴訟救助決定に対する相手方の抗告権の可否

(一) 現行の訴訟救助制度は、制度上も、運用上も脆弱なものであるため、司法制度そのものが、国民の多くから「金と暇のかかるもの」として疎んぜられてきた。その意見において、今日訴訟救助制度の改革が叫ばれている。殊に、申立人の無資力の要件を縮少し、救助の対象を広くすることは、何人も異論のないところである(実務民事訴訟講座2内田武吉「訴訟上の救助」一九三頁以下)。他方、不十分な現行法を可及的に改革の動向にそつて解釈し、正しく運用することも、また、法解釈に課せられた急務である。訴訟上の救助決定に対する相手方の抗告権の可否も、またその見地から論ぜられなければならない。

(二) 大審院昭和十一年一二月一五日の決定は、「被告ハ右印紙ノ不貼用ヲ理由トシテ訴却下ノ判決ヲ求メ得ルモノナル所若シ裁判所カ原告ニ対シ訴訟上ノ救助付与ノ決定ヲ為スニ於テハ被告ノ前記訴却下ノ判決ヲ求メ得ル訴訟上ノ権利ハ之ニ因リテ消滅スベキヲ以テ該決定ニ付キ相手方タル被告ハ此ノ点ニ於テ利害関係ヲ有スルモノト謂ハザルヘカラス、従テ旧法ノ如ク訴訟上ノ救助付与ノ決定ニ対シ抗告ヲ為シ得ル旨ヲ限定セサル現行民事訴訟法ノ下ニ於テハ被救助者ノ相手方ハ利害関係人トシテ即時抗告ヲ為シ得ルモノト解スルヲ相当トス」(前掲判例)と判示し、救助決定に対する相手方の抗告権を認容するもののようである。

(三) しかしながら、相手方に抗告を許すとするならば、その裁判により実質上不利益を蒙る場合でなければならないのは抗告権の原則であるところ、既述のとおり訴訟救助決定について相手方は何らの利害関係を有しない。右判例は、被告は原告の印紙の不貼用を理由に訴却下を求める法的利益を有するとし、その点に訴訟救助決定に関する利害関係を求めるものであるが、この論理は『風が吹くと桶屋が儲る』式のきわめて迂遠な関係を結ぼうとするもので、形式論としても理由の乏しいものである。一般的に、救助決定を争う法的利益はその決定自体の効果として考えられるべきものである。本来、印紙の不貼用は、裁判所が訴状(訴訟手続上、証拠申請等の印紙不貼用も同一に考えることができる)を受理し、被告に送達する以前の段階で審査すべき裁判長の訴状審査権の範囲に属することであり、不貼用の場合には、補正命令によつて、訴訟係属以前(被告に送達する前と同旨)に判断すべき事柄であるから、被告がかかる理由を根拠に訴却下の申立をなすことは、裁判長の前記審査権不行使の怠慢もあつた場合には格別、法の予想しないところである。加えて、本決定の如く、多年の苦しみからようやく裁判に立ち上り、年間数十億の純益を上げる加害企業を相手に、正当な権利を行使しようとする申立人らに付与された訴訟救助決定につき、これを積極的に妨害しようとする抗告人三井金属の抗告にあらわれたように、救助決定の相手方に、抗告権を認めることは、何ら被害者の権利救済にならないばかりか、結果的には被害者の権利行使を制限することになる。まさに、有害無益の議論である。「訴訟救助申立手続は、もつぱら国家に対し特別の待遇を求めるもので当該訴訟の相手方が対立当事者として関与するわけではないから、相手方に抗告を許すとすれば、その裁判により直接実質上不利益を蒙る場合でなければならない」ことを前提に「訴訟救助の決定があつても相手方は通常のように訴訟を追行する妨げとならないことは正に原決定のいう通りであつて、抗告理由の挙げるところも及び本判旨が理由とする訴訟用印紙の不貼用に基き、訴却下を求める権利の侵害の如きも、いずれも反射的、形式的不利益に止まり、抗告の利益を肯定するだけの根拠にならない。」

(兼子、判例民事訴訟法四七八頁)とする学説は、訴訟救助制度の本旨に立つ解釈というべきである。

第三結び

以上の理由にもとずき申立人らは、抗告人三井金属には、本決定に関する即時抗告権が存在しないと思料するので、直ちに即時抗告の却下を求めるものである。

被抗告人主張の理由書 (二)

一、原決定のなされた社会的背景

(一) 現在公害が社会問題としても政治問題としても無視することができないほど深刻化していることは疑い得ない事実である。それにもかかわらずあらゆる企業は利潤追求のみを考え公害防止のための費用の支出を拒み続けてきたし、今もなおそれを最大限に節約するという伝統的行動様式を維持している。一方また政府や地方自治体も「産業の育成」という大義名分のもとに企業の生産活動の保護を最重点におき、公害防止のための適切な措置をなおざりにしてきた。その結果が今日のような深刻な事態を生むに至つたものである。然しながら今日の事態においては政府や地方自治体もこれをこれまでのように全く無視するまゝにはできず、一定の行政的施策をとらざるを得なくなつた。

とりわけイタイイタイ病や水俣病のように既に悲惨な結果が発生している場合においては″被害者を早急に救済しなければならない″という国民の強い声が政府をゆり動かすに至つた。

昭和四三年五月八日、厚生省が「イタイイタイ病の原因は三井金属鉱業神岡鉱業所が排出するカドミウムである」との公式見解を発表したのは政府をして右の方向にむかわしめた第一歩であつた。

次いで新潟水俣病、熊本水俣病についての公式見解が相次いで発表された。

政府や自治体の措置はあらゆる面で問題と限界があり、被害者の根本的救済をはかるものでもなければ、公害を根本的に解決し防止する方向に進んでいるものでもない。しかしながら政府が独占資本の責任を明らかにする方向で公式見解を発表するなどとはこれまでの公害の苦難の歴史をふりかえる時、以前には到底想像できなかつたことである。言いかえればそれほどまでにも悲惨なイタイイタイ病患者の、また水俣病患者の現実がそこにある。

(二) 原決定はイタイイタイ病というものを直視し、全国最大級の公害訴訟に即した判断を示した。

その意味で原決定のもつ積極的意義をそれなりに評価しうる。然しながら被害者の救済を求める強い国民の要望、それによつてゆり動かされる政府、自治体等の中で原決定をみれば、原決定は被害者救済の方向にむかいつゝある社会においてとりわけ進んでいるものとは言えない。むしろ、裁判所が公害の現実を直視して、それに添う方向で自らを対処しなければ国民の基本的人権の守り手を標榜するものが、政府や自治体以上に国民の要望に背馳するものとの非難をまぬがれないであろう。その意味で原決定は国民に対する裁判所の一つの解答であつた。

原決定が出されるに至つた社会的背景をこゝ半年にかぎつて見たとしても右の事実は明らかである。

二、訴訟救助のもつ意味

被害者救済といつても訴訟救助はそれによつて被告の損害賠償義務が肯定されるものではない。訴訟救助は被害者に救済のための一定の機会を与えるにすぎない。

即ち、権利行使の機会を保護するため、司法機関が国に対し、前払い費用の支払いの猶予を命ずるもので、それ以上ではないことを留意するべきである。しかもこの費用支払い義務は可能性にしかすぎないのである。

三、本件即時抗告の違法性

抗告人の本件即時抗告は違法であるから許されない。即ち

(一) 原決定は悲惨な現実を抱えているイタイイタイ病患者ないしその家族に「救済の機会を与える」という見地から出されたものであるが、これに対する即時抗告はこの機会すらも奪おうというきわめて非人道的なものである。

(二) しかもすでに厚生省の公式見解等も出され、イタイイタイ病の原因につき被告(抗告人)の側に責任があることが少くとも「蓋然性、大」という状況のもとに右の機会を断つことをはかつた。

(三) 抗告人は原決定を十分に理解せずに抗告をなしたことは勿論のこと、訴訟上の救済制度自体の何たるかも理解せずに抗告をなしている。

要するに「反対のための反対」にすぎない。右のことは抗告人主張の理由書の二、三の点を指摘するだけで十分明らかである。

イ 抗告人は訴訟救助付与の決定がなされたことをもつて「原決定は訴訟について予断と偏見を抱くものというほかはなく、極めて不当である」と述べているが、このようなことは法に対する無知を自白する以外の何ものでもない。

「勝訴ノ見込ナキニ非ザルトキニ限ル」(民事訴訟法第一一八条但書)という要件を一体どのように理解しているのであろうか。

ロ また「経済的には結局は国家の費用を以つて弁護士を依頼したこととなる」と特異な弁を論ずるが、訴訟救助は支払の免除ではなく、猶予であることを理解しているのであろうか。

ハ 「無資力の認定については之を合理的且厳格にすべきものであることは言うを俟たないところである」と述べるが、「救助ノ事由ハ之ヲ疎明スルコトヲ要ス」(同法一一九条二項)との規定をどう理解しているのであろうか。

その他抗告理由は全く支離滅裂である。第一項で「共同訴訟の場合においても、訴訟救助について各当事者につき個別的に判断すべきものであり」と始めたものが、抗告理由も終りに近づくと「共同訴訟人が共同訴訟を提起しているのであるから、共同して訴訟費用を支弁し得るかどうかを検討審理すべきである。」という結論になる。ここで抗告の理由についての立入つた論議は避けるが、以上の点をみても、本件即時抗告が確かな根拠なしになされたものであることが明白である。

(四) 抗告人は「原決定は須らく、それが相手方の中の何パーセントの者であり、且その額が幾何であつて、それだけの収入があつても(収入のみを無資力の認定基準としたことの違法性については後述する)尚且無資力者と認めざるを得ないと判断するには大凡そ原決定の言う『計り知れない費用』とは幾何の額であるかを疎明に依つて一応認定しなければならない筈である。そして然る後相手方の収入の総額と比較しなければ、原決定のような結論は到底得られない筈である」としている。

注意しなければならないのは右のような形で細かな量の算定を求め、裁判の遅延をはかるのは、抗告人側の常に用いる手口であるということである。即ち第一次訴訟において、われわれは訴状陳述に当つての補足意見で「この裁判において予想される被告側の態度は、科学的真実はまだ究明されていないとして、ぼう大な費用と時間のかかる証拠調を求めこれにより長期裁判にもち込む点にあると思われます」と指摘した。ところが被告はわれわれが心配したとおり第一回口頭弁論以来、「神通川の河川水が含んでいる右の重金属類の濃度、特に原告ら居住地域附近における濃度如何。河川水の上水道、及び各種食品に対する右の各重金属類の許容量。原告らが摂取したという農作物、魚類、飲用水の重金属による汚染度及び各原告等が此等を摂取した期間とその量を各食物、飲用水について主張せられたい。」等不必要な数量的求釈明をなし、原告が右の点についてまでの釈明義務はないとしてけると、原告が釈明をなさない以上、自らは反論を主張できないとして、訴訟の不当な遅延をはかつた。

これにつき裁判所は右の数量的部分まで明らかにする必要はないとして、立証に入り今日に至つている。本件即時抗告事件においても、抗告人は不必要に数量的解明を求めて裁判所を困惑させそれによつて訴訟救助決定の確定を遅らせ、第二次訴訟以下の進行の遅延をはかるものである。

最後に抗告人は「たしかに多数の相手方につき逐一付与の条件を検討するのは非常に手数のかかる煩雑な仕事であろう。しかしそれにも拘らず、民事訴訟法は相手方各人ごとに個々に条件を検討することを命じ、相手方らの主張するように集団的に処理することは決して許容していないのである。」と結論づけて自ら抗告の意図を自白している。

(五) 本件即時抗告は司法機関が国に対し前払い費用の支払の猶予を命じたのに対して第三者たる抗告人が容喙するものである。抗告人には実質的利益が全くない。一方即時抗告がなされたことにより相手方の受ける不利益は甚大である。

即ち昭和四三年一〇月八日第二次訴訟を提起して以来一年数ケ月の間訴訟の進行は全く停止されていたが、本年二月二〇日原決定が出されたことにより相手方はようやく権利行使の機会を得た。ところが相手方が直ちに不当な即時抗告をなしたためまたまたその機会を閉ざされた。一刻も早く救済される必要がある相手方(被害者)らにとつて訴訟の遅延ははかり知れない不利益となるものである。

以上の事実を総合すれば抗告人の即時抗告は抗告権を有せず、若しくは抗告権の濫用であり、違法なものとして許されない。

四、結び

本件は抗告人の不当な即時抗告の結果によるとはいえ全国最大級の公害事件が高等裁判所に係属したはじめてのケースである。仮りに貴裁判所が抗告人の申立を入れ、相手方の一部につき訴訟救助決定を取消すこととなれば、公害訴訟を維持する上で不可欠な原告間の共同歩調を裁判所自ら分断することとなり、ひいては原告の権利行使そのものを永久に阻害する結果とさえなりうる。各地方裁判所は訴訟救助並びに訴訟促進について公害裁判の実態に即した処理をし、国民の要望に答えるべく努力をしていることが窺われる。

貴裁判所においても毅然とした態度で抗告人の違法な即時抗告を直ちに却下し、裁判所の公害裁判に対する理解を改めて国民の前に明らかにするべきである。

被抗告人主張の理由書 (三)

第一、抗告人の理由書第一の(イ)の理由に対する反論

一、抗告人は、同書面第一の理由において、原決定が二つの大きな誤りを冒した違法のものであるという。その第一の理由として、民訴第一一八条の「訴訟費用」が形式的に何を指称するかを明確にした上で救助決定の採否を判断すべきであると主張するもののようである。(同書面第一の(イ))

二、ところで、抗告人の反論が全く理由のないことの第一は、原決定を正確に把握せず、自らの独断を基礎にして論理を展開していることである。原決定の根幹は、「本件疏明資料および原告小松みよ外二七名、被告三井金属鉱業株式会社間の当裁判所昭和四三年(ワ)第四一号損害賠償請求事件の原告らの提出証拠によれば、申立人らはいずれも訴訟費用を支払う資力なく、かつ勝訴の見込みがないとはいえないものであることが認められる」点に存することはいうまでもない。訴訟救助決定の規定が、最終的には疏明にもとずく裁判官の自由な心証形成に委任し、かつ訴訟の実体的判断とは別に申立人に対し訴訟遂行の権利を保全するいはば行政的権能を裁判所に付与した数少い規定であることを考えると、原決定は、救助決定をもつぱら裁判所の専権とする従前の伝統的解釈を踏襲したものであつて、抗告人の主張するような意味において直ちに違法とはなりえないものであることは自明のことである。

かゝる原決定の基本原則を無視して、抗告人の反論はその傍論部分「もつとも右疏明資料によると、申立人らの一部には収入のあるものがないではないけれども」以下に向けられている。しかも前述のとおり、その引用を自らの独断にすりかえて議論を展開しているのであるから抗告人の主張自体失当である。原決定はどこにも抗告人の主張するように諸費用を支払えば無資力となる旨判示していない。

抗告人が、自らの反論の大前提としている原決定の趣旨そのものを、訴訟遂行の費用を支払えば、無資力となるというふうに曲解していることは多言を要しない。

三、第二に、抗告人の曲解は、民訴法第一一八条の訴訟費用を原決定が明確にせず、「この観念についての認識を欠くか又はこれを誤り、本来訴訟費用と目されるものと、その他の裁判費用(民訴法一一八条の対象とならない費用)を混こうしている」と主張する点にもある。いままで民訴第一一八条にいう訴訟費用の範囲が極めて狭隘であり、それだけ一層国民の権利救済を妨げていることは、わが国の訴訟救助制度の一つの欠陥として指摘されている。実際は、民訴第一一八条の訴訟費用の解釈がどうあろうと、現実に訴訟を遂行するに要する費用が民訴第一一八条の訴訟費用の範囲よりさらに広いものであることは、誰の目にも明らかなことである。それ故にこそ原決定は、民訴第一一八条訴訟費用の概念に何を包摂するかには触れないで、「この訴訟の提起を準備しかつこれを維持し、追行するため計り知れない出費が予想される」と判示し、現実の訴訟遂行費用に着目して判断しているのであつてこの判断は蓋し当然のことである。その点抗告人が何故訴訟遂行の各費用について逐一「民訴第一一八条の訴訟費用」の概念にはいるかどうかを問擬するのか、全く理解に苦しむところである。抗告人こそ、民訴第一一八条の訴訟費用の形式的費目が何であるかという問題と実際の訴訟遂行の費用にいかなる費目があるかの問題を混同し未整理のまま主張しているとしか思われない。原決定は、本件の公害訴訟の遂行には、莫大な費用を要する、ことを前提に、したがつて疏明にあらわれている程度の収入が、一部の申立人にあつても本件訴訟の遂行費用と比較して考えると民訴第一一八条の無資力にあたるという論理であることを再確認し、抗告人自らの論理の誤りに気がついてほしいものである。民訴第一一八条の訴訟救助の対象費用が何と何であるかの議論は、ここでは全く無用なことである。

四、第三に、抗告人が原決定につき「……本来訴訟費用と目されるものとその他の裁判費用を混こうし、これらを負担すれば無資力となつて本来の訴訟費用を支払い得ない無資力となると判断したのは本来共同訴訟と雖も訴訟費用は各人別に無資力なるや否やを判断すべきにも拘らず漫然と集団訴訟を一体として救助の対象とした違法がある」ということもその論旨が不明であり、どうして前の判断が抗告人が指摘するような違法であるという結論になるのかまつたくわからない。

申立人は、「公害の原因は、むしろ全体として集団的現象として把えることによつてのみ、その実態がより一層明確になるものであり、また侵害行為及び損害の発生もきわめて類型的、定型的であるから、その審理は可及的に個別的処理によらず、集団的、画一的に処理されなければならないと主張し被害者全体を単一体とする訴訟救助が行わなければならないことを強調してきた。

原決定が傍論において「もつとも、申立人らの一部に収入のあるものがないではないけれども」と判示したことにみられるように原決定のこの点についての判断は申立人らの前記主張からみて極めて不徹底である。

原決定の基軸はあくまで申立人らの疏明資料及び昭和四三年(ワ)第四一号事件の提出証拠によつて申立人らがいずれも訴訟費用を支払う資力なくかつ本件訴訟を勝訴の見込がないとはいえないものであると認めたことであり、悲惨な公害の厳粛な事実の前におのずと公害訴訟の原告につき一律に救助決定を付与せざるを得なかつた点に重要な歴史的意義を有するものである。

第二、抗告人の理由書第一の(ロ)及び第三の理由に対する反論

一、抗告人の第二の理由は、原決定がその判断にあたり用いた疏明資料が不完全であり、また一方疏明資料が皆無であるというように疏明の程度について向けられている。

二、民訴第一一九条第二項は、「救助ノ事由ハ之ヲ疏明スルコトヲ要ス」と規定する。いうまでもなく、疏明は、裁判官の心証形成の原因となる証拠資料について、合理的な疑いを容れることができないほどの高度の蓋然性を有する証明に対比して用いられ、証明に比してより低度の蓋然性、多分おそらくはそうであろうという程度の蓋然性をいうとされている。(菊井、村松「民事訴訟法II二一七頁」参照)民事訴訟法が事実認定につき原則的には証明を必要としながら、疏明で足りると定める理由は、事案がもつぱら迅速な処理を必要とする事項に他ならないからであつて、明文のある場合に限つてこれを認めている。訴訟救助決定はその一例である。

他方、証拠による裁判といつても現行の我が国の裁判制度は、証拠の価値判断は、もつぱら裁判官の自由な心証形成に委ね証拠の種別に応じて証拠の価値をどのように判断すべきかを法律で定めているいわゆる法定証拠主義を採つてはいない。このことは、訴訟救助決定の疏明についても例外ではなく疏明の程度及び資料について現行法上で何ら法定されてはいない。近時とくに交通事故訴訟については被害者保護の立場から、急速に訴訟救助が徹底されつつあることは、すでに申立人らが十分主張し、疏明したところである。

三、しかるに抗告人らは、原審が疏明が全くないか、または不十分であるにも拘らず、救助決定を付与したものであり採証原則に反する如く反論しているが、この反論は右に述べた民事訴訟法における自由心証主義の法則について無理解を示めすものに他ならない。加えて抗告人らは「救助申立の疏明については、旧法時代からの慣例として民生委員による無資力証明書、市町村長による生活扶助を受けている旨の証明書、所得税を納めていない旨の証明書が実務上使用されているのであつて、それはこのような公的機関の証明によつてはじめて無資力が疏明されるからにほかならない」と公的な機関の証明書に固執している。しかしながら抗告人らがその拠りどころとする大審院明治三五年五月六日決定民録八輯五巻一七頁及び東京控訴院大正一〇年四月一四日決定評論一〇巻民訴一一七頁はいずれも旧民訴における法定証拠主義の規定にもとづくものである。ところが、大正一五年四月二四日、法第六一号の民事訴訟法改正によつて、現行の救助決定に関する規定に変更されたのである。当時、弁護士、片山哲氏が「新法において、訴訟救助を求める事由は一に裁判官の認定に委した様であるが、果してこれにより無産階級の要求するが如き費用免除制が確立するであろうか。これは一に裁判官の裁量にまつこととしなければならぬが、訴訟法上に於て事件の種類を明示してかくの如き訴訟事件に就いては、特に救助をなすことを得と謂うが如きことにせば、大いに意味があることと思うのである。」と述べている。したがつて抗告人の指摘する公的機関の無資力証明は旧民訴法に要求せられた法定の疏明方法であり、この法定証拠から解放し、裁判官の自由裁量に委ねて訴訟救助決定を行おうとしたのが大正一五年改正にかかる現行民訴法の第一一八条である。昭和八年七月司法研究第二部第八回会同における自由研究の結果をまとめた野間繁氏(当時、東京地方裁判所判事)の「無産者救護の社会的法律的考察」(疏甲第一八三号証)によれば民訴第一一八条の当事者が訴訟費用を支弁する資力なきことについても次のような解釈が行われている。すなわち「訴訟費用を支弁する資力なき者にして初めて救助を要する者と謂うべく従つて救助を受くべき者は身分相応の生活資料に困難するのみならず、尚訴訟費用を支払う資力だになき無資力たるを要す。当事者自身が無資力なれば資力ある扶養義務者の存否を分たず又その無資力の原因がその者の責に帰すべき事由たると否とを問わず。然れどもその無資力は必ずしも扶養を受くべき状態の生活を為し居れるを謂うにあらず、又債務超過を謂うにあらず茲にいわゆる無資力は裁判所の自由なる意見をもつて救助申立人の現在の資産状態に鑑み救助を目的とする訴訟に就き当該審級に於て生むべき予見的訴訟費用の額を参酌したる上認定すべきものとす」(同書五〇〇頁参照)と。

四、じつさい救助決定の疏明資料については最近市町村長の証明のみならず、本人作成の陳述書、受任弁護士作成の上申書、母親作成の上申書、法律扶助協会と依頼者および受任弁護士三者間の契約書、日弁連人権擁護委員会の調査報告書、自治会長総代の貧困証明など公的機関の証明以外に多数の資料が採用され救助を認められている。(「第一審通常訴訟事件における訴訟救助事件の救助事由の疏明資料の種類」参照)(「実務民事訴訟講座判決手続通論II」内田武吉「訴訟上の救助-その運用状況と改革の方向」一九一頁)外国の立法例にあつても英米法においてはもともと申立人の資力に関する陳述とその陳述の真正なることの宣誓書を提出することで十分とされており、(前記「無産者救護の社会的法律的考慮」五〇三頁)、抗告人らの市町村長の無資力証明のみに依存する考え方は、法律上の規定の上ばかりでなく、実務上もすでに改革されていることは、顕著な事実である。

五、しかも、申立人らは資力の疏明について、抗告人がいうように本人作成の報告書(疏甲第一八九号証)とイタイイタイ病対策協議会会長、小松義久作成にかかる調査報告書(疏甲第三一八号証)のみに依存しているものではない。むしろ、イタイイタイ病被害地域全域の収入状況をあらわすたくさんの疏明資料によつて十二分に立証づけられている。いうまでもなく、イタイイタイ病発生地域は、神通川によつて取水される用水によつて灌漑される大沢野町、八尾町の各一部、婦中町の大部分、富山市の一部である。

被害者をみると、農家の主婦が圧倒的に多い。(疏甲第一四四、第一四五号証)昭和四四年一月二〇日現在、富山県に登録された患者一〇六名、要観察者一五二名に達している。このことを婦中町を例に、農業専従者の男女比が男、一三一三に対し、女、三一九一人(女七〇・八パーセント)であること(疏甲第一六七号証)また、富山市の例によつて、農業就業者の割合をみると六〇才以上、二二・五パーセント、四〇才~五九才が四二・五パーセントであること(疏甲第一七二号証、農村水産業の動き、〈3〉農家人口及び農家従事者の動向、第九図参照)がうかがわれ、以上をあわせて考えると、本件イタイイタイ病が農家の基幹労働力を侵害し、農業経営にいかに甚大な損害を与えたかを容易に推認することができる。富山県の農家経営は、稲の単作が中心であり(七九・七%)、鶏卵、豚、牛乳たばこなどがこれにつぐが、農産物の生産価額としては、三パーセントから一パーセント程度を占めているにすぎない。(疏甲一六六号証「農業所得統計」主産地形成指標(農産物粗生産価額の順位構成比)これを昭和四二年を基準に所得からみてみると、専従者一人当りの農業粗生産価額は、富山市の場合四八万円以上になるが、婦中町、大沢野町、八尾町の場合はいずれも四六万円ないし四八万円程度であり、耕地面積一〇アール当りの農業粗生産額は、婦中町、大沢野町、八尾町では七、八万円、富山市においては八、九万円であるといわれている。その中でも、もつともカドミウムによる汚染地域が広く、かつ被害者の多い婦中町における耕地面積は、農家一戸当り一・〇五ヘクタールである。これを地域別にみると、速星区域〇・九七、朝日区域〇・九一、宮川区域一・四二、鵜坂区域一・二〇、熊野区域一・三四(単位いずれもヘクタール)である。(疏甲第一六八号証「とうけい」)してみると申立人らの居住地域の農業経営は年間七~八〇万円粗収入を得、これから農薬費、肥料代、農具費、雇入費などの必要経費などを控除した残額によつて平均五~六人の家族の生計を維持していることが明らかになる。

次に見方をかえて、抗告人が固執する市町村の判断を基準に婦中町の昭和四三年分農業所得標準算定書を検討する。(疏甲第一六九号証)同算定書によると、水稲耕作地域は四段階の地域に分れ、当該地域の反当粗収入金を最高金六万八六八一円から最低金六万三三三六円までに区分されている。例えば熊野地区では道喜島、為成新、添島の各部落が一級六万八六八一円、中名、下井沢、萩の島が三級六万六〇〇八円、蔵島が四級金六万三三三六円その他の区域は二級として金六万七三四四円と算定せられている。他方、右の反収をあげるための必要経費は、農薬費、金二〇九七円、耕転費金三、一五〇円、公租公課金一三〇四円、種苗代金三三〇円、農肥料代金三五〇九円、農具費金一〇六五円、減価償却費金二〇〇七円、雇人費金二五二七円、その他金二九七二円、合計金一万八九六一円に達し、これを控除すると一級地四万九六三二円、二級地金四万八三七五円、三級地四万七一一九円、四級地金四万四六〇七円という結果となる。前述のように婦中町の農家一戸当りの平均耕作面積は約一町歩であるから、これを積算すると、一町歩の農家の稲作実収入は年間四、五〇万円相当と算定され、したがつて婦中町当局の課税調査によつても申立人らの平均実収入が明らかになつているところである。

このことは同町の「昭和四三年度市町村民税等の納税義務者等に関する調」(疏甲第一七〇号証)によると、さらに具体性をもつてくる。

同表によつて婦中町全部の農業所得の所得割か均等割と所得割のいずれかの納税義務を負う納税義務者一五六二名を対象にその所得構成をみると次のようになつている。すなわち課税標準額が〈イ〉五万円以下のもの一九七名、〈ロ〉五万円をこえ一〇万円以下のもの二一七名、〈ハ〉一〇万円をこえ一五万円以下のもの一八〇名、〈ニ〉一五万円をこえ四〇万円以下のもの七四九名、〈ホ〉四〇万円をこえ七〇万円以下のもの二〇二名、〈ヘ〉七〇万円をこえ一〇〇万円以下のもの一七名であり、全体の五〇パーセント近くが一五万円から四〇万円に集中し、一〇〇万円以上の農業所得層は皆無である。因みに給与所得者四五九二人の場合でも、〈イ〉五万円以下のもの八六四名、〈ロ〉五万円をこえ一〇万円以下のもの七七二名、〈ハ〉一〇万円をこえ一五万円以下のもの六九一人、〈ニ〉一五万円をこえ四〇万円以下のもの一六〇五名、〈ホ〉四〇万円をこえ七〇万円以下のもの五四六名、〈ヘ〉七〇万円をこえ一〇〇万円以下のもの七四名であり、ここでも一五万円をこえ四〇万円以下の所得層が多く、全体の三分の一強を占めている。営業所得にあつても例外ではない。婦中町の納税義務者統計六六七三名を対象に総合的に判断してもその順位は、〈1〉一五万円をこえ四〇万円以下のもの二五三三名で第一位であり以下、〈2〉五万円以下一一六五名、〈3〉五万円をこえ一〇万円以下のもの一〇七七名〈4〉一〇万円をこえ一五万円以下のもの九四七名、〈5〉七〇万円をこえ一〇〇万円以下のもの一〇二名である。(右小計六六一五名)

したがつて所得割を基準とする全納税義務者の九九・一パーセントが課税標準額が一〇〇万円以下であることが証明されている。婦中町に居住する申立人らの資力はどのように把握しようとも、ほとんどすべて、一〇〇万円以下の所得の範囲に包摂されることは明らかである。すでに述べたように富山県全域の農家が米作を中心とする農業に依存するものであつて、イタイイタイ病被害地域の大沢野町八尾町の各一部、富山市の一部にあつても、その地域に特有の条件がないのであるから、右所得の情況も同程度と推認して差し支えない。

六、次に、抗告人の本件訴訟における予見的費用につき疏明がないという主張について申立人らの主張を明らかにする。

前述したように、民訴第一一八条の救助の対象となる訴訟費用をどの範囲の費用としてとらえるかは別にして実際には訴訟の準備追行に右範囲の内外を問わず多額の費用を要することはいうまでもない。その意味において抗告人のいうように民訴第一一八条の訴訟費用を費用項目ごとに列挙して申立人に当該費用を支払える能力があるかどうかの次元において判断することは現行の民訴第一一八条の解釈が現実の訴訟遂行費用全額を包含するまでに至つていない以上無意味な思考方法である。例えば弁護士費用を考えてみても現行の民訴第一一八条の支配的解釈はこれを対象にしていない。しかしそれだからといつて、本件訴訟が弁護士を付さないで遂行することが可能であると判断することは余りにも非実際的な空論である。そこで調査研究費いくら、交通費いくら、というふうにその各費用について逐一疏明がなければ莫大な費用がわからないと主張するのは本件訴訟を全く知らないものの言い草である。一つの例として原決定の引用する富山地方裁判所昭和四三年(ワ)第四一号損害賠償請求事件の検証を経験すれば、まさに「百聞は一見にしかず」である。被害地域は、神通川流域の一市三カ町に達し、この広大な地域を網の目のようにはりめぐらされた用水をたどると被害者らの家々が集落をなしている。一方、汚染源である抗告人会社は被害地域の上流数十キロの岐阜県の山中にある。しかも抗告人会社は、日々刻々、証拠隠滅に狂奔して堆積場を改築し、沈澱池を急増し、工場従業員には口をつぐませるなど、真実を覆いつくそうと躍起である。

これらの情況の中でイタイイタイ病の被害は古くは大正年間から発生していたと推定されており、厚生省が調査した汚染と過去の汚染度の間には、相当のひらきがあつて、しかも過去の汚染度を調査することが容易でないことは厚生省見解にもあらわれている。それにもかかわらず、現在患者は百数十名に達し、要観察者また潜在患者は千数百名に上るだろうといわれる被害である。現に、本件審理の対象となつた申立人が三九四名(第二次訴訟ないし第四次訴訟)外に第五次訴訟の申立人八一名である。仮に申立代理人弁護団がこれらの申立人らに一つの連絡をとることを想定しても、その通信連絡費の莫大であること、また申立人らの事情聴取のため面会するとしても、どのような形式によつて行おうとも相当多額の費用を要するのは必定である。いわんや、抗告人会社の妨害や策謀に抗して証拠を収集する活動費用また真実を究明する良心的な科学者の調査分析費や、訴訟準備のための申立人及び代理人弁護団の行動費等とその費用が計り知れないものであることは、この訴訟を少しでも知つているものならば容易に推認できるところである。因みに抗告人は、弁護士の数を云々しているけれども、五百名に達する本件訴訟の原告団一人一人の弁護士が面会したとしても、その同数が必要である。抗告人は何を基準に代理人の数の多寡を論じているのか全く理解に苦しむが仮に抗告人の論理をもつて形式的に代理人の数を問題にするならば、抗告人側は一当事者に八名の受任弁護士であるから、申立人側は五〇〇名の当事者として四〇〇〇名の代理人が必要ということになるであろう。事件の本質とその被害者の実態を無視して、無用なケチ論に終始する抗告人の非人道的な態度はきびしく糾弾されなければならない。抗告人は、本件の訴訟追行に当つての諸費用、とりわけ弁護士費用、旅費、日当、飲食代等々、自らどれだけ巨額の経費を支出したかを胸に手をあてて考えてみれば自づと明らかであろう。

第三、抗告人の理由書第二及び第三の理由に対する反論

一、ここで、まず気がつくことは、抗告人ら、自らも断わつているように、同書面の冒頭において「訴訟救助についての規定は、訴訟当事者各個について無資力であるか否かを判定すべきものであり、所謂、属人的のものであることは云う迄もない」と主張した筈であるから、矛盾するものでないといつてみても納得できない論理である。この抗告人の主張は個人に基準を置くとしても、その訴訟救助の採否について、突如、家族集団をもち出す議論であり、いわゆる「家」の制度に裏付けられたものである。また一方、冒頭、同じ箇所において「共同訴訟の場合においても訴訟救助について各当事者につき個別的に判断すべきものである」と主張しながら、同書面第三の部分においては、突然、「共同相続人が共同訴訟を提起しているのであるから、共同して訴訟費用を支弁し得るかどうかを検討審理すべきである」と主張するなど全く支離滅裂であつて、反論としての体裁をなさないものである。

二、妻たる地位が法律上行為無能力者として扱われ、もつぱら夫を通じて社会的に発言し法律行為を夫の判断に拘束されていた明治憲法時代ならば格別、婦人の地位が名実ともに平等として昂まりつゝある今日、加害企業による不法行為の損害賠償請求をなすにつき、何故、夫の判断に左右され、また扶養義務者の資力の有無が問題となるのであろうか。訴訟救助の請求は、かかる経済的弱者が権利を侵害された場合に裁判によつて訴求しうる訴権を経済的に保障したものであつて、単に国家の恩恵や慈悲によるものではない。してみれば、その救助の経済条件判断に当つても申立人自身のそれぞれの訴権として、申立人それぞれの経済条件を基準に斟酌されるべきものであることは自明のことである(但し、民訴法第一一八条の無資力と判定すべき経済的基準が、訴訟の相手方(加害企業)との相対的関係においてとらえられるべきものである点は後述する)抗告人の主張は、家の制度を前提にした妻の無能力論であるか、さもなくば反対のための反対であつて到底、取るに足りないものである。

三、すでに、申立人らも指摘した昭和八年の裁判官会同において無資力の判断につき、「当事者自身が無資力なれば、資力ある扶養義務者の存否を分たず、又、その無資力の原因がその者の責に帰すべき事由になると否とを問わず云々」と述べられていることはすでに昭和八年当時においてすらこの問題の本質を的確にとらえたものといわなければならない。(前記「無産者救護の社会的法律的考察」五〇〇頁)

第四、抗告人の理由書第四に対する反論

一、抗告人の主張は、ここでもいくつかの混乱がある。一つは、「原被告のいずれを勝訴させるかの結論は、科学的に立証された後でなければ出し得ない性格のものである」とし、民訴第一一八条の「勝訴ノ見込ナキニ非ラザルトキ」の解釈を訴の終局的判断と同一視していることであり、また一つは「二月一四日漸く最初の証人である富田国男医師の証言の段階に入つたばかりであつて、従つて現段階において、突如相手方に勝訴の見込ないとは云えないとした原決定は云々」という部分では、明らかに、訴訟救助の証明方法が疏明で足りることを忘れた議論である。もちろん、申立人らの立証がイ病の因果関係につき民訴法上、求められるいかなる証明方法によつても、本訴において十分証明尽されていることはいうまでもない。

じつさい、医学的にみても、抗告人らが主張する疾病の病理学的な解明と、病気の原因をつきとめる病因論とは、別異に取り扱われているのであつて、病気の原因が判明しても、その発病の自然科学的機序が解明されていないことは、われわれが日常、常識とする疾病についても、多くあることである。いわんや、訴訟は医学を解明する場ではない。誰がイタイイタイ病の犯人であるかを判断する責任追求の場である。まして、抗告人らが訴訟救助決定の適否の場において本訴と同じように原因論を行おうとする真のねらいは、この無用な論争をつづけることによつて実質上、申立人らに救助を与えた原決定の効果を棚上げにして発動せしめないことに向けられていることは明らかである。救助決定の判断は元来、迅速な解決のために疏明で足りること、また通常本案審理以前に、裁判官の裁量によつて行なわれるものであることを考えるならば、抗告人の主張自体失当でおることに、これ以上議論を重ねる必要はないであろう。今日、イタイイタイ病の原因が神岡鉱業所が排出したカドミウムであることは、住民の体験、数々の科学者の証明、そして厚生省の見解として、百科辞典、教科書などに採用されてすでに国民全体の確信にまでなつているのであり、それにも拘らず、徒らに打算と利欲にとらわれるの余り、原決定を出した裁判官に対し、「予断と偏見を抱く」という暴論を吐けることに、国民は、むしろ裁判制度のもつている寛容さに怒りさえ感ずるであろう。

第五、結び--原決定の意義を含めて--

一、申立人らは、わが国の司法制度が伝統的に「金と暇のかかるもの」として、国民から疎んぜられ、その民衆的基礎が極めて脆弱であると非難された原因はまさに訴訟費用の不合理と訴訟救助制度の貧困にあつたと再三指摘してきた。とりわけ、公害裁判においては、加害企業の経済条件が、容易に訴訟を引延すことも可能であり、また一方、財力を恃んで、証拠を捏造することもありえないことではない。じつさい、申立人らが本件訴訟の冒頭において裁判所に意見陳述した過去の鉱害裁判の敗北の歴史は、すべて加害企業の財力と被害者の経済力が比較にならない格差があり、被害者側が財政的にも長期の裁判に堪えず、また財源の枯渇ゆえに有力な証拠を挙げることもかなわず、志気をくじかれたものであつた。「民事裁判は金のある奴が勝つ」とさえ巷間いわれてきた司法制度への不信感は、訴訟遂行にはいかに経済条件が、大きな比重を占めてきたかを示めすものに外ならない。それ故にこそ、申立人らは民訴第一一八条の「無資力」の判断にあたつては、かゝる相手方加害企業の経済条件と被害者側の経済条件を対比し、その相対関係においてとらえるべきことを、主張してきたのである。もつとも、申立人らの経済条件は疏明資料にあつたように大部分が四〇万円乃至六〇万円前後であり、従来の基準をそのまま考えたとしても、訴訟救助の要件に適合するものであることはいうまでもない。しかしながら、相対的関係において、彼我の経済条件を検討すると、抗告人会社は、資本金一〇八億円、半期(六カ月)の売上高三一三億一、三〇〇万円、総資産六四七億五、五〇〇万円、純利益一八億九〇〇万円(疏甲第一六四号証)の大資本を擁する日本の代表的企業である。これに比較するに、仮に申立人らの一部に年間二ないし三〇〇万円程度の収入のある者があつたとしても、無資力と断ずるに何の躊躇もない。いなこの程度の収入で、大資本との訴訟が対等に維持できると考えたとすれば、訴訟の実質上の公平に眼をつむつたと非難されても致し方あるまい。その意味で原決定は、結論的には公害訴訟の本質と実態に合致したものである。

二、申立人らが、本書面の当初において指摘したように、訴訟救助制度は民訴第一一八条が〈1〉「訴訟費用ヲ支払フ資力ナキ者」と、〈2〉「勝訴ノ見込ナキニ非ラサルトキ」の二つの要件を抽象的に定めているにすぎない。この二つの要件を具体的にいかなる疏明にもとずき、いかに判断するかは、当該裁判所がその事案に即し、もつとも適切な方法によるべきものである。したがつて抗告人が自ら誤つた独自の見解を基礎にして、疏明方法ないし疏明程度をかくあるべしと勝手に決めこみ、原決定に対し違法呼ばわりをすることこそは法の解釈を誤まつたものに外ならない。しかも、本案審理における自らの攻撃防禦方法に何らの利害もない訴訟救助決定を争うことは、無用ないいがかりとしか云いようがない。

三、訴訟救助の無資力要件をいかに解釈するにせよ、従来の絶対的貧困から、さらに高い水準に引き上げ、これを広く認める趨勢は世界的な傾向である。アメリカの最高裁ブラツク判事は、「(訴訟上の救助に関する)法律上の利益を享受するには絶対的に貧窮でなければならないとの下級審の意見には同意できない。貧窮の故に「訴訟費用の予納又は担保の提供はできないが……自己及び被扶養者に『生活必需品を求める』資力はあるとの宣誓供述書は救助の要件を満すに十分と考える」(ジユリスト、三五七号五九頁)と判示している。また、英国の新法律扶助制度は〈1〉法律扶助ばかりでなく、法律相談を与えることを目的としていること、〈2〉無資産の人々ばかりでなく、中産階級の人々をも対象としていること、〈3〉費用の全部又は一部が国家の経費から支払われることに特徴を有している。法曹時報第三巻第一二号の原増司氏の説明によると、「『母胎から墓場まで』の実現の一つとしてさきに肉体上の疾病について一切の治療を国の経費でまかなう国家保険制度、を実施してきたが、それと同じような問題が社会上の疾病である法律上の障害についても考えられてきた。これについては医学の場合と同じように、すべての国民がその資力に関係なく無償で裁判制度を利用すべきであるとする徹底した国家法律扶助制度の議論が考えられる。」が、そこに至る過程として、一九四九年七月三〇日に前記の特徴を有する新しい法律扶助及び法律相談が制定され、公布されたといわれている。「この共和国の生命の青写真となつた理想を思い付き、万人の法の下における平等な正義を規定する条規を立案した我国の法律家が苦しんだように、我々現代の法律家は、自由ののろしを掲げつゝ弁護士及び裁判官として、憲法の諸規定を真に実効あらしめるように献身している。次のことが、常に試金石である。憲法の諸規定は実効があるか。これを常に実効あらしめるように行動及び献身によつて助力している善意の人々が存在しているか」とは、マルバード、マンウエイが法律扶助について述べた論文の一節である。(法曹時報第四巻第二号「法律扶助」古関敏正訳七八頁)

四、訴訟救助制度はかゝる背景のもとに、まさに転換期を迎え、他方、公害裁判を通じて今日、国民の信頼と期待の寄せられている吾が国の司法制度が真に国民の権利を擁護するものであることを、自ら立証するためにも、抗告人らの主張を斥け、原決定が示めした正当な判断が維持せられるべきである。

被抗告人主張の理由書 (四)

第一、申立人等の訴訟費用の実体とは何か。

(一) 原決定は、「いま前記訴訟事件で係争中であるように長年月、かつ広範囲にわたつて多数の被害を生じ、しかもその被害の性質、程度も決して尋常のものでないことなど本件公害訴訟の規模、性格等にかんがみるときは、この訴訟の提起を維持し遂行するため……計り知れない出費を余儀なくされるであろうことは推測するに難くなく」と述べている。そして、費用項目として例示的に「調査、研究費、通信連絡、交通費、諸書類作成、謄写費、弁護士費用、鑑定、検証、多数当事者・証人取調べなど」をあげている。原決定のこの理由から、次のことを容易にうかがうことができる。即ち、

第一に、いわゆるイタイイタイ病訴訟が昭和四三年三月九日に提起されて以来、昭和四五年二月二〇日、本決定に至るまでの間、その審理をしてきた。この審理は双方の攻撃防禦方法、書証、人証、検証等によつて進行してきた事実の重みがある。このことは、「いま前記訴訟事件で係争中であるように」と述べていることから理解できることである。

第二に原決定には、公害訴訟の規模、性格等を直視しようとする努力のあとがみうけられるのである。このことは極めて重大な意義を有している。公害訴訟の特質を理解しようとする姿勢があるか否かは、後に詳細に述べるように(1) 被害者が憲法上保障された、裁判所において裁判を受ける権利が保障されるか否か、(2) 人道的正義を貫く裁判が行われるか否か等の成否をきめるからである。そして、抗告裁判所の判断は、右(1) (2) の何れに組しどのような客観的役割を果すのか、換言すれば、恥じて余りある汚点を歴史に残す道を取るか否かにかゝつていることを銘記しなければならない。

第三に、約一八〇字の簡潔な文章で訴訟費用の実体を把握していることである。原決定理由を分析すれば次のようになるであろう。

〈1〉 長年月に亘る多数の被害を生じていること

〈2〉 広範囲に亘つて多数の被害を生じていること

〈3〉 被害の性質も決して尋常なものでないこと

〈4〉 その他

〈5〉 被害の程度も決して尋常なものでないこと

〈6〉 訴提起を維持し訴訟を遂行するために計り知れない出費を余儀なくされるであろうこと

しかし、この簡潔な約一八〇字の文章の中にどのような内容、いゝかえれば訴訟費用の実体が含まれているかは、実体審理しない抗告裁判所では理解できないかも知れない。疎甲第三二一号証(イタイイタイ病裁判記録第一集以下「裁判記録」という)で、訴訟費用の実体の一部をうかがい知ることができるとしても、それは、ほんの一端にすぎない。

(二) まず原告等の立証準備活動の範囲はどのようなものであろうか、この点を注視しなければならない。疎甲第三二一号証(「裁判記録」)で明らかなように、特に請求原因第二の「侵害行為」及び原告準備書面三「被告会社とカドミウム」の主張からすれば、このような主張を裏付ける立証準備活動の範囲は、日本における裁判の歴史上かつて存在したであろうか。足尾鉱毒事件が若し裁判となつていたならば、これに匹敵していたであろうが、戦前戦後の裁判史上でこのような未曾有の立証準備活動の範囲は何一つとして存在していないのである。この重要な視点を絶対看過してはならない。

本件訴訟が、単に長年月且つ広範囲に亘る多数の被害が生じているという文章のまゝの規定で終るものでは決してないのである。「裁判記録」では立証活動の範囲が十分明らかになつていないので、この点を中心にしぼつて明らかにしておきたい。

立証準備活動の範囲は、長年月に亘る多数の被害がある点を考えるならば、被告神岡鉱山による八〇年に亘る鉱害の系譜である。即ち、神岡鉱山は、企業の拡大につれ、煙害、次いで魚害、更に農業被害、遂には人間の生命まで奪つた人間鉱害と発展しているのである。つまり、池に投じた一石は、次第に波紋を拡大させ、イ病裁判を惹起させずにはおかなかつたのである。その一石こそ、被告企業が明治二二年に神岡鉱山を買収したときに始つている。

従つて、立証準備活動の範囲は、約八〇年に亘る鉱害の歴史が一つ一つ盛り込まれていることを十分認識する必要があるし、「多数の被害」は単にイ病患者の発生に止つていないことを銘記しなければならない。

更に、立証準備活動の範囲は、広範囲に亘る被害がある点を考えるならば、「カドミウム、亜鉛、鉛の産するところに必ずカドミウム公害あり」ということに尽きる。この範囲は、富山県神通川下流域にイ病が発生したというが如き限局されたものではない。

こゝに至つて理解できるようにイ病訴訟を提起し、維持し、遂行するための立証準備活動の範囲は、全国的規模にならざるを得ないのである。全ての証拠蒐集活動は、全国的規模によつて果されているし、果されなければならないのである。更にいうならば、海外文献の蒐集はスウエーデン、アメリカに及んでいることを言及しておこう。

この立証準備活動に伴う費用は、数えあげれば尽きることのないものであつて、むしろ一言でいうなら想像に絶する莫大なものといつてよい。原決定理由は、調査・研究費、通信連絡・交通費、諸書類等作成・謄写費をあげている。立証準備活動の中心は調査、証拠蒐集活動である。

右の調査活動の実態がいかに大変なものであるかは、専門的学術的論文一つを原告らが理解するにも、学者のもとに日参したり、学者を招いて連日猛学習するという実例をみただけでも明らかであろう。

立証準備活動の中でも裁判の中でも次から次へとこれらの文献がでてくる本件訴訟においてこの時間的、経済的損失は巨額なものとなるのである。抗告裁判所は、この実体を看過判断しうるものではないことを強調しておきたい。なぜならば、若し、申立人等に右費用項目に限定して費用を計算しても、その費用の出捐を余儀なくされるならば、申立人等は田畑を売り、自己居住の建物まで手放さなくてはならなくなるであろうからである。仮令一部に収入がある者があつても同様である。申立人等に対し、徳川幕府の農民対策としていわく「生かさないように殺さないように」といつた道をとるか、それとも裁判提起を取下げるかいずれかの道をとらざるを得ない結果となる。その何れの道も人道に反するものとならざるを得なくなる。

第二、訴訟費用の実体について考慮しなければならない要素。

(一) 被告企業の証拠の隠蔽と証拠蒐集活動の妨害

大独占企業が被害住民によつて裁判提起の状態が現出せられるや、自ら手持の資料を公開、提出することは絶無である。熊本水俣病裁判における新日本窒素の態度、新潟水俣病裁判における昭和電工の態度、更に、森永ミルク中毒事件における森永ミルク中毒患者のカルテの公開についての態度は、全て周知の事柄である。この種のことは枚挙のいとまがないと云つてよい。イ病裁判においても同様で被告企業は証拠隠蔽と証拠蒐集活動の妨害を平然とやつてのける。

凡そ、公害訴訟において公害の発生源たる工場施設は加害者側が管理し、そこに存在する詳細な資料も加害者が保管している。被告企業は、所有権と企業秘密(ノウハウ)の名の下に一般人に公開することなく、又神経質なまでに企業側の資料の見聞、調査、証拠蒐集活動を拒否する。このことは、欧米における企業(例えばフランスの如きは、企業側の医師が公害発生源について一般国民に対し積極的に公開する--人道の立場の貫徹、キリスト教の影響)とは全く異質な、日本企業の独特の陰険な手口というべきである。人道主義の片鱗すらうかがうことはできない。

従つて、申立人等の立証活動--証拠蒐集活動--は、極めて困難な条件におかれ、この困難な条件を克服するには、長期且つねばり強い、周到な調査研究活動と、一般に公版された右書籍文献等によらざるを得ないのである。

(二) 多数の自然科学者の登場と研究活動

「裁判記録」昭和四三年九月二日付原告準備書面第一、イタイイタイ病の病理、イ病の原因物質、第二、カドミウムの由来と汚染経路の主張で明らかなように、イ病の原因について、自然科学者の科学的究明がなされてきたことは周知のことである。第一、(二)〔イ病--人間鉱害--〕で述べてきたところからも明らかであろう。

公害裁判において自然科学的専門知識が必要なことはいうまでもない。そのレパートリーは、農学、地質学、地球化学、数学、統計学、土木工学、土壌肥科学、河川学、気象学、医学(臨床、病理、外科、内科、整形外科、公衆衛生)等に及んでいるのである。単なる社会科学の領域--主として法律学--から拡大して自然科学の綜合的研究が必要なのである。イ病裁判を提起し、維持し、遂行するには不可欠の自然科学的知識といつてよい。そして、これらの自然科学の知識の総結集の上にイ病裁判において自然科学者の証人が登場しているのである。このため、これら自然科学者との知識交流、資料の蒐集、研究活動は、内容の深い、範囲の広いものであることを知らなければならない。例へば、岡山大学教授小林純博士は、岡山市に在住しており研究所は倉敷市である。そのための研究活動は唯一回ですませるものでは決してない。小林教授と原告らが研究活動した回数は二〇数回に及び参加者もきわめて多数に及んでいる。

この一例でも明らかなように単に延人員、回数といつたものは氷山の一角にすぎず、これに伴う資料コピー、謄写、交通費、時間費消等は、天文学的数字にのぼらざるを得ないのである。一市民事件であれば、自然科学者の登場はせいぜい一人か二人であろうがイ病裁判においては原告の場合日本の自然科学学界の多数が登場して、いつでも証人として出頭せざるを得ない状況を現出している。被告企業の応訴態度が頑迷であればある程、その登場の機会は多いであろうし、これに伴う費用の出捐は莫大とならざるを得ない関係となる。

(三) 多数の生活体験証人の存在

明治・大正・昭和の三代に亘り煙害、魚害、農害をうけ、遂には生命まで奪われた原告等は、このいわれない侵害に対し、自ら生命と健康を守る権利を有するばかりでなく立証においても、被告企業の責任を徹底的に追及する権利を有する。これらの諸権利は、被告企業の欺まん策、弥縫的手段によつて幾多の挫折、幾多の泣き寝入りを経ながらも、約八〇年に亘つて尊い生き証人として存在している。鉱毒を日常的に経験した住民の「生活体験」は、不動の真実となつている。被告企業が泥棒の足跡の如く永年に亘つて残した鉱毒による被害、即ち「神岡鉱山カドミウム等の鉱毒を流し続け、被害地域に流下し、それを住民が摂取し、そして発病した」この歴史的事実は、祖父から父にそして息子等に語りつがれてきたものである。これらの事実は神通川流域の数万人の生き証人によつて立証されるものである。これらの人達こそ、正にイ病裁判を提起し、維持し、遂行していく人達というべきである。自然科学者の登場も、これらの「生活体験」証人がいたからこそ果しえ支えられてきたものである。イ病裁判における立証は、これら数万人の生き証人等に対する徹底的な調査、証拠蒐集活動によつてのみ、はじめて果されるといつても過言ではない、これらの証人に対する調査、証拠蒐集活動には、既にばく大な人員が参加してきたものであり、これに伴う費用は、如何に抗告裁判所が要求したとしても到底、これを算定することはできない。

第三、結び

イ病公害裁判提起を準備し、かつこれを維持し遂行するための出費とは何か、既に述べてきたことで明白であろう。想像に絶する費用がかゝり、この費用の実体がなければ、到底裁判を維持し、遂行するどころか裁判の準備すらできないのである。憲法に保障された、裁判所において裁判を受ける権利とは何かということが根底的に問われるのである。もう一度再確認しておきたい。公害訴訟の特質から生ずる訴訟費用の実体についての理解が不足すれば、裁判所において裁判を受ける権利は全く形骸化し、人道的正義が貫かれる裁判はなくなり、公害裁判上恥じて余りある汚点の歴史を残すことになる。

イ病裁判における費用の出費は、巨大の一語につきよう。

従つて、訴訟費用を支払う資力の有無を判断するに当つて、第一には、原告と被告企業の資力関係を相対的にみなければならないこと、第二に民事訴訟費用法にきめるところの訴訟費用概念を固定的に解釈し、裁判を準備、維持、追行するために必要不可欠な裁判外で、要する種々の費用を無視することが許されないこと。訴訟費用救助決定にあたつては、これらのことが極めて重要な、必要不可欠の判断資料なのである。つまり、原告らの資力と、公害訴訟の特質より生ずる出捐を余儀なくされるであろう原告らの巨大な費用とを、相対的にみなければならないのである。

被抗告人主張の理由書(五)

申立人の資力関係について

一、抗告人は「申立人の一部の者(その数一五九名)の総収入は年額一億七九九万円にのぼり、本件訴訟において右の額以上の出費があるとは考えられない」といゝ、さらに疏明方法として小池実代理人事務所の事務員大野正隆なる者をして疏明乙第一二号証乃至六〇〇号証を作成させている。右疏明方法は、何れも不動産(田、宅地、建物等)の所有関係につきている。この抗告人の態度は申立人等が不動産(抗告人のいわゆる資産)を所有していれば即ち公害訴訟における訴訟費用救助の有資力者とみなす論理である。そして申立人等の所有関係を、

(1)  申立人等自身が現実に資産を有している。

(2)  申立人には資産はないが、申立人の世帯主が資産を有している。

(3)  申立人の同居の親族に資産がある。

といつた三つの類型に分けているが、この資産の考え方(分析ではない)は、何ら農業経営の実態を分析、理解しない、机上論にすぎない。

以下抗告人の資産の考え方の誤りを指摘し、且つ右資産が訴訟費用救助の「有資力」でない理由を述べる。

二、(一) 抗告人のいうように仮に一五九名の総収入が一億七九九万円であるとしても、一軒平均六一万円余であり、人間としての最低限度の生活を営むのに不足する金額であつて、半期純利益だけで十数億円の利潤をあげている抗告人会社と比ぶべくもないことはいうまでもないことである。

抗告人の主張は総合計して数字を大きくすることによつていかにも訴訟費用を支払う資力があるかの如きよそおいをこらしているが、この金額により多数の人が生存をしているという事実を無視した暴論であり、これこそ数字の魔術というべきものである。

(二) 申立人等農民が資産(田、宅地、建物)を所有しているとしても、これらは全て農民生活における必要不可決の生産手段であり、生活を維持するための基盤である。

申立人等農民及びその家族は、宅地上に建てられた建物に住み、自己の労働力を提供して田畑から生じた収益をもつて生活を余儀なくされる宿命をもつている。

申立人等農民が稲作によつて収益をあげている関係上、資産中でも最も重要なのは「田」即ち稲の単作、栽培の源となる「田」である。

先ず、この資産である「田」について、抗告人の如く静止的平面的な把握の仕方は誤つているといわなければならず、正しくは戦後の農業構造上の歴史的変貌と、農業(稲作)の関係を分析しなければならない。

つまり、一〇年前の田の農業所得によつてまかなえる生活水準と今日の農業所得でまかなえる生活水準とは著しい変貌を遂げていることを見究める必要があることである。そして同じ面積の田でもその収益率がいちじるしく減少していることを知らなければならない。

(三) 注目しなければならないことは、「高度成長」経済以降今日においては、農業一本では到底生活できない状況に追い込まれていることである。このことは申立人等農民は「田」より「収益」をあげているものの、この「収益」は、全て純益になる訳ではない。当然必要経費(農薬費、耕転費、公租公課、種苗代、農肥代、農具費、減価償却費、雇入費等)、家計費(申立人及び申立人等の家族の生計費等)を控除しなければならない。耕作反別の大小はあつても、「高度成長」段階以降においては、農家経済には著しい変化がみられる。変化の最も大きな特徴は、農業所得をもつて家計費を賄いうる層は、昭和三〇年には一、五ヘクタール(約一町五反)以上層であつたものが、昭和四〇年になると二ヘクタール(約二町)以上層に引き上げられるに至つている関係からも明らかであろう(疏明甲三九五号証)。

(四) さらに、農家経済が益々苦境に追い込まれている情勢のもとで、申立人等の田はカドミウム等の重金属によつて汚染せられ、且つ又、田より生産された米も又「汚染米」として被害をうけていることである。重金属に汚染された、客土されないまゝの田地等が今日においても依然として放置されている深刻な事実である。抗告人等は明治二二年以降今日に至るまでカドミウム等の重金属をタレ流し、農民の追及の結果、昭和二六年以降毎年約三〇〇万円の「補償金」を出捐しているが、これらの補償金は申立人等農民にとつて一戸当り一、〇〇〇円に充たないものである。

三、申立人等の資産は有資力の資産として把握することができない。

(一)申立人等の資産が、右二、で述べてきたような条件下にあたり、さらに本件公害訴訟の場合に有資力者の資産として把握することができるのであろうか。申立人等は農民であり、莫大な費用を捻出するには田地と労働力の提供によつて生活を維持している関係上、田地を切り売りし、生産手段を失い、ひいては農業労働力を発揮する機会を失う結果となる。このことは労働者が退職して「退職金」をもつて訴訟費用に充当するといつた生やさしいものではなく、労働者の右腕を切り取り、これを切り売りすることに等しいものである。申立人等農民の最も基本的な生活を維持する基盤を訴訟費用の名目をかり奪うことは絶対できない。

(二) さらに、申立人等は、宅地、建物を有しているが、これは生産手段である田地の「固定したベースキヤンプ」である。農民がアパートを賃借してここに居住し農業のできるわけがない。従つて申立人等の宅地、建物は正に田地と不分離、必要不可欠の農業上の生産手段と位置づけなければならない。

抗告人のいうように、〈1〉田地〈2〉宅地〈3〉建物といつた平面的な把え方をすること自体「農業」を全く理解していない者の主張である。

(三) 申立人等は、申立人等の所有する「田」「宅地」「建物」が以上の条件、以上の農業経営の実態に即した分析から、「換価しえない不動産」として把えたものである。これらが本件公害訴訟を提起し、維持し、遂行し且つ又準備するには、訴訟費用上の資産としては存立することができないことは明らかといわなければならない。

被抗告人主張の理由書(六)

一、訴訟上の救助規定の解釈と運用

(一) 原決定が、「申立人らは、いずれも訴訟費用を支払う資力なく、かつ勝訴の見込がないとはいえないものである。」と認定し、さらに「もつとも、右疏明資料によると申立人らの一部に収入のあるものがないではないけれども」と前置し、本件訴訟の規模、性格、被害の性質、程度を勘案して、本件訴訟遂行費用を推測すると、「本件疏明資料にあらわれた程度の収入があつても、これらのものもまた民事訴訟法第一一八条にいわゆる訴訟費用を支払う資力のないものにあたると認め訴訟上の救助を付与する」と判断したことは、訴訟救助制度のあるべき解釈と運用にてらして、当然の帰結であつたというべきである。

(二) 民訴第一一八条は、「訴訟費用ヲ支払フ資力ナキ者」と、「勝訴ノ見込ナキニ非サルトキ」の二つの要件を規定するに留る。訴訟救助を付与する対象者を定めるにつき、明確に金額などの基準を設けてこれを判定する方法を採用せす、もつぱら個別的な事件に即してその判断を裁判官の裁量に委せる方法を制度としている以上、その当否は、当該裁判官が訴訟救助制度をどのように解し当該事件をどのように理解しているかにかゝつている。本件においては、イタイイタイ病の被害者の実態をどのように把握し、この世界有数といわれる産業公害の犠牲者の権利を如何に保全せしめるかの認識の程度に依存することは今更いうまでもない。法の解釈と運用は畢竟社会の変化とともに推移し、現代における国民的要請をどのように反映するかこそ、司法制度に課せられた課題であることは救助制度の運用にあつても決して例外ではないこと勿論である。

二、イ病裁判の経過と被告の応訴態度

(一) イタイイタイ病の悲惨さについてはもはやここに再論するまでもない。

(二) それにも拘らず、この人間鉱害を蒙つた一市三カ町村の住民(申立人)が相手方三井金属の責任追及に立ち上るまでの歴史は、長く、あらたな苦しみの連統であつた。一体申立人らにとつて、国家そのもののように巨大にみえる三井金属を相手に裁判をして勝てるものであろうか、訴訟費用は一体どのくらいかゝるものであろうか、ある農民の場合、思案の揚句成案を得ぬまゝ帰宅するわが家に呻吟する妻たるイ病患者を見るにつけ、何としても裁判によつて、これが道を切り開かねばならないことを身をもつて知らされたという。この追いつめられたぎりぎりの状況の中で、申立人らは昭和四三年三月九日、第一次訴訟以下のいわゆるイタイイタイ病の裁判に立ち上つたのである。

(三) これに対し、相手方三井金属のとつた態度はどうであつたか。

(1)  三井金属神岡鉱山の鉱毒の歴史は古い。申立人らがすでに述べたように、大正年間からまず煙害によつて周囲の草木を枯らして養蚕、林業を破壊し、つゞいて汚濁廃水によつて高原川の魚族を死滅させ、さらに被害を下流に拡大して神通川流域の四〇〇〇町歩に達する水稲に被害を与えはじめた。

(2)  ところが訴訟の場において、相手方三井金属は何ら有用な反証も有せず、徒らに時間稼ぎのために訴訟の引伸しをはかりつづけてきた。

本件抗告もまた他ならぬ訴訟引伸しの一貫として行われている。けだし、もともと訴訟救助決定には何の実害もなく相手方が期待したことは、もつぱら即時抗告によつて審理の開始を遮断することにのみ向けられているのである。

(3)  相手方のこの不誠実な応訴態度を第一次訴訟(昭和四三年(ワ)第四一号事件)についてみると第一に原告らの請求原因事実に対する無用の求釈明を繰り返すことから始められている。

第二に被告は自らの証拠を隠滅することに狂奔し、杜撰な廃水廃滓管理が暴露することを怖れて、審理の進行につれて妨害の限りをつくしてきたことも、訴訟の結論を引きのばす方途として忘れなかつた。

第三に訴提起当時から鉱毒説に対する何の反証も有していない被告は審理に提出される原告側の証拠をみたのちに、(一)急いで自らの手で反証をつくり上げるか、(二)医学界の発表要旨から少しでも自らに有利な資料を無体系に拾いあつめ、これを反証として鑑定採用の手がかりとするか、(三)全くあてずつぽうに証拠の探知を目的とする証拠の取調べを求める、かのいずれかの方法によつて訴訟の遅延をはかつてきた。被告提出にかゝる書証の大部分が訴提起後に被告会社の従業員によつて作成されたか、あるいは訴提起後の学界に発表されたものである事実によつてこのことが十分証明されている。

第四にその他被告が徒らに訴訟遅延の目的のみによつて、証人の都合また証言の内容も検討することなく適当な証拠申請を行つてきた例は数少くない。

(4)  このような経過ののち、被告は訴訟引きのばしの、最も有効な、それゆえに最後の砦である鑑定申請が却下されるや、裁判官全員の忌避を申し立て、本年一二月二一日富山地方裁判所によつて忌避の申立が却下された実情にある。

三、結び

以上述べたように、相手方の応訴態度はもつぱら訴訟の引伸しによつて申立人らの志気をくじき涙金で和解を申し出させるとか、訴を取下げさせる時機をまつことにのみあることは明らかである。それは単なる訴訟遅延をこえた非人間的な悪業である。その意味において、本件抗告審において申立人らが意見書(一)において強調したように裁判所が訴訟救助につき相手方の即時抗告権を否定する立場をとらなかつたことは結果的には相手方の不当な謀略を容認する結果となつたことはゆがめない。この間申立人らのうちすでに数名の人々が本訴の開始をまたず、死亡していつたことは、まことに重大である。

裁判所はかゝる相手方の不当な即時抗告に対し、あらためて、訴訟救助制度の本質を理解し、すみやかに相手方の即時抗告権がない旨の判断を明確にして本件抗告を却下されるよう要請する。

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